【筑摩書房】
『さようなら、オレンジ』

岩城けい著 



 私たち個人が、他ならぬ個人として認められるかどうかという点について、私たちはしばしばそうしたものが自分の内に生まれたときから与えられていると錯覚しがちであるが、じっさいには個人が個人である以前に、どこかの国の国民であるとか、あるいは市民であるとかいった部分が、個であることの形成に大きく影響しているところがある。

 たとえば、何かを所有するという原理について考えたときに、そこには当然のことながら自分が他ならぬ自分であるということが前提になければならない。この家は、この土地は、この権利は、他ならぬ「私」自身のものである――だが、その「私」であることを証明してくれるのは、現在の民主主義においては国家である。どこかの市なり町なりに、私という個人が「市民」として登録されていることが、何かを所有することの大前提となっている。逆にいえば、市民としての登録がされていなければ、私たちは何かを所有することも、何かのサービスを利用することも叶わなくなる、という厳然たる事実がある。それは個人であることを剥奪されたも同然だと言うことができるほど、私たちはその存在を国家というものにゆだねて生きている、ということを意味している。

 そんなふうに考えたときに、国という強烈な「個」としての後ろ盾から外れざるを得なくなった「難民」という存在は、はたして自身の「個」をどのように保ちつづけていくのだろうか。今回紹介する本書『さようなら、オレンジ』が提示するテーマ性は、ふだん私たちが生きていくうえではさほど意識されることのないものである。だが、そうであるがゆえにこの物語は、読む人に自身の人間性――自分が他ならぬ自分自身であるということについて、あらためて目を向けざるを得なくなるようなものを、たしかにもっている。

 ××にいけば、○○が手に入る。そんな単純なことが話題になって女たちを喜ばせているのに、サリマの××はほど遠く、○○は雲のようにつかみどころのないまぼろしに思えた。××でオレンジ色を手に入れたい。けれど××がどこなのか、サリマはまったく、想像も出来なかった。

 本書は大きくふたつの物語の流れがある。ひとつはサリマという名の黒人女性を主体とするパートで、アフリカの紛争地域から家族ともどもオーストラリアに避難してきたという背景をもっている。彼女はなかば夫の言うがままに故郷を後にしてきたものの、およそ教養らしい教養を身につけていないサリマは、自分の故郷がどこで、今自分のいる国が故郷からどのくらい離れているのかもよくわかっていないところがある。まさに身ひとつで異世界に放り込まれたような状態である彼女には、さらに面倒を見なければならないふたりの幼い息子を抱えているうえに、唯一頼りにすべき夫は移住後しばらくして、何の前触れもなく彼女を置いて失踪してしまう。言葉すらままならないこの異国の地で、サリマはたったひとり、スーパーマーケットで肉や魚を解体する仕事をしながら、どうにかこうにか日々の生計を立てているというのが現状である。

 もうひとつの流れは、ジョーンズ先生に宛てた手紙という形で構成されているパートで、それを書いている人物については、本文中では「S」というイニシャルしかわかっていない。しかしながら本書を読み進めていくと、少なくとも彼女が異国の地の大学で論文を発表できるだけの素養を身につけた日本の女性であること、研究職に就いている夫とともにオーストラリアに移住してきたこと、そしてサリマ同様にひとり娘を育てなければならず、それゆえに本来彼女がやるべきこと――論文を完成させ、大学に復帰するという目標からも遠ざかってしまっているといった事情が見えてくる。

 いずれも故郷を離れ、母語ではない言語――ここでは英語ということになるが――が主流となっている国で生きていかなければならない、という意味で共通した部分をかかえているふたりを結びつけるきっかけとなったのは、英語を第二言語として学ぶ人たちのためのESLスクールだ。サリマは手紙の書き手のことを「ハリネズミ」と勝手に名づけているのだが、自分たちの生活の場となっている国の言葉を話せるようになり、また読み書きできるようになるというのは、まさにその国で生きるためには必須に等しいスキルだと言うことができる。だが、このふたりがスクールに通うようになったのは、そうした事情とは少し異なるベクトルによるものだ。

 サリマのほうは、学校に通うようになった息子たちがふつうに英語を話せるようになっており、彼らを通訳にすればいいという考えを当初はもっていたし、「ハリネズミ」については、そもそも英語で論文を書くことができるだけのスキルをすでに身につけてしまっている。そういう意味では、ふたりはわざわざスクールに通わなくとも移住先の国で生活することが可能な立場にいる。だが、それでもなお英語を学ぼうという彼女たちの、その意欲の原動力になっているものは何なのか、という点こそが、本書を貫くひとつのテーマとなっている。

「だれもこの国では私を護ってはくれないし外にも連れ出してくれない。言葉もわからず取り残されるのがこわい。ぼんやりしてたらすぐにおばあさんになりそうです」

 上述の引用にもあるように、「ハリネズミ」の場合は、英語を生きるための武器としてとらえなおそうとしているところがある。それは彼女にとっての英語が、あくまで自身の学問のために使うものであって、その言葉を使う国で暮らしていくためのもの、という意識がそれまで希薄だったことを意味している。それが夫を頼りにオーストラリアに渡り、さらにそこで子どもを産み育てることになることで、にわかに彼女の英語に対する意味づけが変化した。その国の言葉が――それも学問としての言葉ではなく、生活をするための言葉が話せなければ、戦うことさえできない、という切羽詰った感情がそこから見て取ることができる。

 サリマについても事情はよく似ているが、彼女のばあい、故郷にいたときから母語については話すことができるだけで、読み書きについてはほとんど身についていないという違いがある。つまり、サリマにとって文字に書かれたものを読んだり、あるいは文字を書いたりすることは、自分が何を考え、どんなことを感じているのかを形あるものとして組み立てる道具を、はじめて手にしたということを意味する。それは言い換えるなら、他ならぬ自分自身を手に入れるということでもある。

 本書でのサリマのパートは基本的に朴訥としたイメージで統一されていて、たとえば具体的な固有名詞などがほとんど出てこない。それはサリマにとってそうした個別のための名称があまり意味を成さない、というよりも、生きていくために最低限必要な言葉の表現しか使いこなせないということでもあるのだが、そのなかでもとくに印象深いシーンとして、彼女が息子の学校の教育の一環として、自分の国のことを語るというものがある。サリマはスクールの先生や「ハリネズミ」の助力を受けながら、その原稿を英語で書き、英語で発表するのだが、そこには母語を基礎とする過去の自分と、英語を第二の言語として今を生きている自分とを統合させるという意味合いが垣間見えてくる。過去と現在、ふたつの時空にいる「私」は、けっして断絶しているわけではなく、たしかなつながりをもっている――その「たしかなつながり」を実感した瞬間こそが、このシーンなのだ。そしてそれは、それまで過去に目を向けて足踏みしているだけだったサリマが、自分の意思で前に進んでいく、新しい自分として生きなおす決意をする瞬間でもある。

 異国の地の、おぼつかない言語によって再構成された新しい自分――それは母語による自分とまったくの同一ではないが、母語への信頼なしにはけっして存在しえない自分でもある。たしかな自分を見つけ出し、ほかならぬ自分として生きることに、懸命に向き合いつづけた何気なく、しかしこのうえなく愛おしい物語を、ぜひ堪能してもらいたい。(2013.03.17)

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