【パロル舎】
『ノスタルギガンテス』

寮美千子著 

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 たとえば、真夏の河原で拾ってきた、きれいな色の石、たとえば、幼い頃のお気にいりだった超合金のロボット、たとえば、小学校の図工の時間につくった紙のロケット、たとえば、絵を書くときには必ず使っていた、豪華三十六色(金色、銀色入り)色えんぴつ――小さい頃、あなたのまわりにも必ずひとつやふたつはあったはずの「宝物」は、今どこでどうしているのだろうか。成長とともに、いつしかその手から離れていき、そして知らないうちに消えてしまったそれらは、あるいは古くなってすっかり壊れてしまったのかもしれないし、あるいはかつての魅力を失ってその本来の姿に戻ったのかもしれない。あるいは――それは非常に悲しいことではあるが――ゴミ箱に捨てられてしまったのかもしれない。だが、その「宝物」にこめられた想いはもしかしたら、ゴミとなっても消え去ることなく、波間に漂う浮遊物のようにこの世のどこかを漂流していて、どこかに打ち上げられるのを待っているのかもしれない。そのイメージは、とても寂しく、はかない感情を引き起こすかたわら、ある種の魅力――人の心を惹きつける何かがある、ということを、私たちは認めなければならない。

 本書『ノスタルギガンテス』に登場する草薙櫂にとって、夏休みの工作展でつくったメカザウルスは、まさに「役に立たなくてもとてもすてきな物たち」そのものだった。だが、櫂にとっては特別であっても、他人の目にはたんなるガラクタの寄せ集めでしかない。いずれ母親の手によって「ゴミ」と名づけられ、ゴミ捨て場に捨てられてしまうことに我慢できなかった櫂は、「森の公園」に立っている古くて大きな木のずっと高いところにメカザウルスを安置することを思いつく。一億二千年前の生き物でありながら、同時に未来の存在でもあるメカザウルスにもっともふさわしい場所――だが、その場所と結びついたメカザウルスは、徐々にかつての持ち主の手を離れ、メカザウルスという名前を失った「何か」となっていくのを櫂はたしかに感じ取る。まるで、死んだ恐竜が気の遠くなるような長い時間をかけて化石となるように――そして、ある日を境に、メカザウルスを祭った木の周りには、少しずつ少しずつ「キップル」たちで溢れるようになる。

 壊れたおもちゃのピアノ、ぼろぼろのグローブ、綿のはみだしたぬいぐるみ――「キップル」とは、ようするにガラクタの類いである。だが、それらはけっしてたんなる「ゴミ」としてひとくくりにされるような存在ではない。かつてその持ち主だった人の想いとともに名前を失い、メカザウルスの木の元に打ち寄せてくる「役に立たなくてもとてもすてきな物たち」は、清掃員たちの努力もむなしく、日に日にその数を増していく。はたして、これらの名前を無くした物たちは、どこから来て、そしてどこへ向かおうとしているのか。

 名前がない、ということの意味、そして名づけられることの意味――名前がそのものの個性を生み出すのではなく、むしろ名前という枠の中にその力を封じ込めてしまうのではないか、という考えを示す小説としては、薄井ゆうじの『くじらの降る森』が有名ではあるが、本書では「命名芸術家」なる者が登場する。日々流転をつづけ、けっして同じ形にとどまることのないメカザウルスの木に新しい芸術の可能性を見出した彼は、新たな名前をつけることでそれをこの世に存在させてしまう。一度存在を許された「何か」は、とたんに大勢の人の目にとまるようになる。もちろん、放っておけば、いずれその場所はたんなるゴミ放棄場として見向きもされない存在と化していたかもしれない。だが、名づけられることによって、メカザウルスの木はたしかに何かを失いつつあるのがわかるだろう。本書においても、櫂という少年の目をとおして、名前というものに対して否定的なイメージを読者に示そうとしている。かつてはどこにでもあったはずの自然を博物館のなかに閉じ込め、何もかもに名前のつけられた自分たちの街の嘘臭さを理屈ではなく感じとることのできる櫂にだけ、ゆるやかに時間の流れる世界を見ることができるのだ。

「命名芸術家」とともに、世界をカメラに収めるカメラ男――彼は櫂にこんなことを話して聞かせる。

 けれどもね、櫂、誰がほんとうに何物かをつくりだす神を求めているだろう。そんなもの、誰も欲しがってはいないさ。恐ろしいんだ。見たこともない新しいものをつくりだす神なんて、怪物と同じさ。みんな新しいものを求めているように言うけれど、それは嘘だ。みんなは、いまのままの世界で安住していたい。だから、求めているのは創造神じゃない。世界を映す鏡なんだよ。

 どこかの公園に行ったとき、目にする木々に名前の書かれた札がぶらさげられているのを見たとこがあるが、その木の名前を知ったところで、たんなる物知りに一歩近づいただけのことでしかない。鳥類図鑑を手にバードウォッチング、なんと間抜けな姿だろうと思わずにはいられない。名前を知ったところで、そのすべてを知ったことにはならない。その物が持つ性質に何かを感じ、それで興味をもって名前を調べる――それが物を観察するということであるはずだ。名前が持つイメージにとらわれないものの見方を、あなたはまだ行なうことができるだろうか。(2000.01.17)

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