【河出書房新社】
『盗作・高校殺人事件』

辻真先著 



 メタフィクション、という言葉がある。
 あるいは「作中作」と言ったほうがいいのかもしれないが、たとえばある小説のなかに小説家が登場し、その彼が書いている小説の内容が載せられている、というたぐいの物語のことである。小説のなかにもうひとつ別の小説が登場し、ことによってはその小説を書いた書き手までもが登場人物として出てくる――いわば物語の入れ子構造を形成していくこのメタフィクション、たとえば私がこのサイトで紹介したものだけでも、恩田陸の『三月は深き紅の淵を』、加納朋子の『いちばん初めにあった海』『ななつのこ』、小森健太朗の『ネメシスの哄笑』、瀬名秀明の『八月の博物館』、小川勝己の『眩暈を愛して夢を見よ』など、それこそ数えあげればキリがないほど、さまざまな小説家がてがけている手法である。そして、ここで挙げた作家のほとんどすべてがミステリー作家であることを考えると、このメタフィクションという手法が、ミステリーにおいて重要な「謎の提示とその謎解き」というアイディアの幅を広げる役目を果たしていると言うことができるだろう。

 そもそもミステリーにかぎらず、私たちが読む小説というのはフィクションである。そのフィクションをメタ化する、というのは、ようするに今読者が感情移入して読んでいる物語のなかで、突然その登場人物が「これって小説なんだよね」とわざわざ断りを入れるに等しい行為であり、下手をすれば読書の意欲をそいでしまうことにもなりかねない。「まるで小説みたいだ」と登場人物に言わせたりする程度のものならともかく、読者に意図してフィクションであると認識させることを念頭において展開していくメタフィクションは、だからこそその取り扱い方が難しい手法でもある。

 さて、ここまで前置きしたからには、もうおわかりかと思うが、今回紹介する本書『盗作・高校殺人事件』も、基本的にはメタフィクションのミステリーである。そして、この「基本的に」という表現が重要なところなのだが、それは本書のなかで展開される謎とその謎解きが、メタフィクションという構造でなければ成立しない、ということを意味しているのだ。そういう点で本書は、なぜメタフィクションにしたのかよくわからない巷の作品とは、あきらかに一線を画している。

 新宿駅の九番ホームでおこった惨事にまきこまれて負傷した牧薩次は、運び込まれた病室で同じく惨事に巻き込まれた三原恭助、上野武と知り合った。その現場で、かつて交通事故で死んだ従姉妹の幽霊を見た、という恭助の話を受けて、彼の実家である鬼鍬温泉にやってきた男女六人は、しかしそこで不可解な密室殺人事件と遭遇することになってしまう……。ポテトこと牧薩次と、スーパーこと可能キリコの凸凹探偵コンビが殺人事件を解決していくという話は、『仮題・中学殺人事件』という作品が以前にも刊行されており、本書は言ってみれば、この凸凹探偵コンビのシリーズ第二弾、という体裁をとっているのだが、小説にしては妙に説明的な言い回しが多く、どうにも野暮ったい印象をぬぐえない本書を読み進めていくと、唐突に「幕間」という章で、今まさに本書を執筆している作者とその編集者が登場する、という展開が待ち受けているのだ。

 ミステリーといえば、まず殺人事件があり、誰が犯人なのか、そしてどのようにして犯行がおこなわれたのかを明らかにしていく、という固定の形がある。もっとも、最近ではとにかく何らかの「謎」さえあれば、すべてミステリーとひとくくりにしてしまう傾向にあるようだが、本書の場合、メタフィクションという構造をとることによって、物語内における犯人探しとは別の、しかし本書のメインともいうべき謎を用意している。それは、本書のキャッチコピーである「作者は被害者です。作者は犯人です。作者は探偵です。この作品は、そんな推理小説です」という文句からもわかるように、メタ化された本書の作者が誰なのか、という謎であり、また小説内小説の世界と、それをメタ化している世界とが、どのような関連性をもっているのか、という謎でもある。そして、この関連性によって、本書のなかにある伏線のすべてが見事に解消されていく。その巧妙な物語構成を味わうだけでも、本書を読む価値はあるだろう。

 ところで、私は以前、伊坂幸太郎の『オーデュボンの祈り』のなかで、ミステリーにおける探偵が「事件を推理し、犯人を探し出すことを運命づけられた者である」と述べた。およそどんな事件であっても、必ず解決へと導いていく探偵――それゆえに、彼らはときに人間としてのリアリティーに欠ける存在と化す。そもそも、もしこの現実世界において「探偵」が存在するなら、この世から「迷宮入り」や「冤罪」などという言葉は存在できなくなるに違いないのだが、もし本書を読み終えた方がいらっしゃるなら、メタフィクションという体裁をもつ本書における「探偵」の意義について、あらためて考えさせられることだろう。未解決の事件、叶えられない願い、子どもの真摯な思いをわかろうともしない大人たち――どれだけ現実の事件をもとにしてミステリーを組み上げていっても、唯一誰にも置き換えることのできない「探偵」は、フィクションのなかでしか存在しえないからこそ、現実を生きる人々の代弁者となりえる存在でもある。だが、逆にいえば、「探偵」という役目をもつ者は、この現実においてはしょせんはフィクションでしかない、ということでもある。

 メタフィクションという構造によって、ポテトとスーパーという「探偵」役は、このうえなくフィクションであるという認識を読者に植え付けることになった。当然のことながら、彼らはメタ化された世界のことまで推理することはできない。そういう意味では、彼らもまた「探偵」役としては不充分な存在なのだ。では、本書における真の「探偵」とは誰だったのか? そうした観点から読んでいっても、本書は非常に興味深い作品だと言うことができるだろう。(2004.09.21)

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