【講談社】
『ガラスの麒麟』

加納朋子著 
第48回日本推理作家協会賞受賞作 



 人生とはその個人による選択の連続のことであり、そして今の自分の姿はまぎれもなく、無数の選択の結果なのだ――そんなことを言う人がいる。歩き出すときに右足と左足のどちらから出すべきか、といった小さな問題から、どんな職業に就き、誰と結婚すべきか、といった大きな問題まで、意識するしないにかかわらず、確かに私たちは、常に無数の選択肢の前に立たされている。そして、その人はこうも言う。人はすべての選択に対して、そこにどんな結果が待っていようとも、責任を持たなければならないのだ、と。だが、人は本当に、すべての選択に対して責任を負わなければならないのだろうか。
 たとえば、山ではなく海に行きたいと言ったばかりに交通事故に巻き込まれた人に対して、「それは海を選んだお前が悪いのだ」などと言うのだろうか。

 本書のタイトルにもなっている『ガラスの麒麟』というのは、地元の私立女子高校に通っている安藤麻衣子が書いた童話のタイトルでもある。頭脳明晰、容姿端麗、経済的にも恵まれた家庭に育ち、他の少女たちのあこがれの的でありながら、高慢で、どこか屈折した危うさを持っていた安藤麻衣子は、しかし二月二十二日の夜、何者かの手によって刺殺されてしまう。ちょうどその日、イラストレーターである野間は、娘であり、殺された麻衣子の友人でもあった直子の様子がおかしいことに気づく。直子はテレビで報道されている通り魔殺人事件を見ながら、突然、自分は殺された安藤麻衣子であると言い出したのである。はたして直子の体は本当に、死んだはずの安藤麻衣子に乗っ取られてしまったのだろうか、それとも……。

 本書は全部で六つの章で構成されていて、それぞれの章には名前があり、そして各章で、ちょっとした事件が起きる。事件そのものは、あるいはなんでもないような出来事でしかないのかもしれない。だが、そこには必ずと言っていいほど、不安定で傷つきやすい「いまどきの女子高校生」の姿がある。いや、何も女子高生ばかりではない。まったく先の見えない、何が真実なのか、ほんとうに大切なものは何なのかもわからないこの世の中――確かなものなど何もないように思えるこの世の中に生きている人たちは、誰もが心の中に陰湿な、ドロドロとしたものを持っているものだ。そして、その鬱屈した何かが表面に噴き出してくるきっかけは、決まってほんのささいなことなのである。

 通り魔による女子高生殺人――新聞記事の中にこのような見出しがおどっていたとしても、もはや大して驚きもしないほど、私たちはここ数年の間、異常な事件をまのあたりにしてきているが、それでもなお、事件の起きた近所に住む人々にとっては、非常に衝撃的な事件であることは容易に想像がつく。著者は、あくまでひとりの少女の死を中心にして、その事実が周囲の人たちにいかに大きな影響を与えるか、ということを、真摯な態度で表現しようとする。そして、これが本書の面白いところでもあるのだが、それぞれの章の構成、そして物語全体の構成をよく見てみると、本書は多分にミステリーとしての要素を強く表面に押し出しているのである。

 もし本書をミステリーとして位置づけるとするなら、鋭い洞察力で犯人を推理する探偵役となっているのは、間違いなく、高校の養護教論をしている神野菜生子であろう。彼女がいる保健室には、身体のほうよりも、むしろ心の傷のほうを抱えこんだ女子高生たちがやってくる。そして、彼女たちが話してくれるさまざまな事柄をもとに、神野菜生子は複雑に入り組んだ人間の心の動きを推理していく。けっして断定はしない。ただ、思春期という微妙な時期にいる少女たちの心が、いかに頼りなげに揺れ動くものであるかを、彼女は確かに承知している。それは同時に、神野菜生子の心の中にも、彼女たちと同じものが宿っていることを意味しているのだ。

――(中略)――あの年頃の女の子たちは、信じられないくらいデリケートで高慢で、脆いんです。ちょうど、お話にあったガラスの麒麟のように。いつも精一杯首を伸ばして、背伸びをして、だからとても不安定で壊れやすくて、いつも何かに迷っているの」

 わずか十七歳という若さで死んでしまった安藤麻衣子――彼女が生きた十七年は、いったい何の意味があったのだろう。そもそも人はなぜ生まれ、そしてなぜ死んでいくのだろう。その重い問いかけは、そのまま私たち自身にも向けられていることに、読者はきっと気づくはずだ。あらゆる選択に対する責任――私たちに必要なのは、その責任を受け止めるだけの覚悟なのかもしれない。(1999.09.05)

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