【徳間書店】
『漂流街』

馳星周著 
第1回大藪春彦賞受賞作 



 アイデンティティ。自己同一性。自分が他のだれでもない、まぎれもない自分自身である、ということ。どこの国に生まれようと、あるいは誰の子供であろうと、自分は自分であり、その以外の何者でもないはずである。だが現実はどうだろう。身体に染みついた故郷の匂い、皮膚の下で脈打つ両親の血、自分がこれまで辿ってきた過去――故郷から遠く離れれば離れるほど、両親を否定すればするほど、自分がそれらのものに強固に縛りつけられていることを意識する。自分のルーツ。それは自分という個性を形作っているものの一部として、もはや切っても切り離すことのできないものなのだろうか。どこまで行っても、何をしても、けっきょく自分のルーツという束縛からは、逃れられないということなのだろうか。

 本書『漂流街』に登場するマーリオは、<ピンクキャット>という売春クラブで、指名された女を客のところまで運ぶ運転手として働いている。日系ブラジル人の二世。体に半分だけ流れている日本人の血。だが、彼にとっての日本とは、そこから追い出されるようにブラジルへと渡り、やせた大地でグァバの栽培をせざるを得なかった祖父太一の暴力的な支配の象徴であり、かつて弟のロナウドを衝動的に殴り殺してしまったことで、はからずも自分が、まぎれもなく太一の暴力性を受け継いでしまっていることを証明してみせた呪いの象徴でもあった。日本――黄金の国ジパング。五年も働けば大金を手にすることができる夢の国。このままいれば祖父とともに埋もれてしまう運命を確信したマーリオが、日本行きを決意するのは、ごく自然な成り行きだったと言える。
 だが、マーリオがやって来た日本でもまた、彼の日本人の血は徹底して彼を拒絶し、必要以上におとしめる。ふたつの人種のハーフ。どちらでもあると同時にどちらでもない中途半端な自我。中途半端な容姿に、中途半端な日本語――金はいっこうに貯まらず、ただ、どこからともなく湧き起こる焦りや不安、悲しみ、そして怒りばかりが溜まっていく日々。そんなとき、マーリオの耳に関西ヤクザと中国マフィアとの間に大きな取引が行なわれる、という話が飛び込んでくる。

 ヤクザと中国マフィア。けっして手を出すなと言われてきた、畏怖すべき存在。そんな奴等の取引から、金と麻薬を奪い取ろうという大それた計画。だが、マーリオはふたりの女の命を奪うことと引き換えに、通訳として中国マフィア側に取り入ることに成功する。徐々に現実味を帯びてくる、大金を得るという夢。金の匂いを嗅ぎとって群がってくるハイエナたち。たんなる利害関係でのみ結びついている、けっして油断できない計画の共謀者――マーリオにとって、本当に信頼できるアミーゴは誰ひとりとしていない。彼のスタンスは、どこまでいっても自分以外の人間は信じない、というところにある。そして、それゆえにマーリオと何らかの形で関わってしまった人間は、次々と不幸に巻き込まれてしまう。疫病神――人を呪うときの言葉。悲しいことに、その不幸はマーリオが本当に愛し、守りたいと願っていた人達にまでおよんでしまう。しかし、そのすべての原因は、マーリオにあったのだろうか。
 まるで、あらゆるものから見放されてしまったかのように、マーリオにとって不利な方向へと傾いていく状況、そしてことあるごとに意識させられる自分のルーツ――かつては同じ日本人だったはずの移民の子孫の存在を認めようとしない日本という国、そんな国に対するやり場のない怒りが、徐々に彼から夢をみることを奪いとっていったのではないだろうか。

 マーリオはしきりに想像する。大金を手に入れた後のことを。金があれば何でもできる。人生をやりなおすことができる。嘘――ほんとうに彼が欲しいものは、金では買えない。そのことは、彼が一番よく知っている。

 くだらない夢だ。今まで、何度も夢を見てきた。最初に願った夢――ロナウドが生き返りますように。夢がかなったためしはない。おためごかしと嘘――おれが生きているのはそんなものに埋めつくされた世界だ。

 マーリオは嘘をつく。何食わぬ顔をして。金を独り占めするために。他人を思いどおりに動かすために。自分が守りたいと思った人を救うために。理由はなんであれ、その奥底にあるのは、けっして叶うはずのない、それでも願わざるを得ない自分自身の夢――自分がこの世に存在することを許してほしいがために、他人をだまし、そして自分自身にまで嘘をつきつづける。その嘘によって築かれてきたものが瓦解したとき、はたして彼に何が残っているのだろうか。

 人間であること。人間であるがために背負わなければならない、さまざまな面倒なこと。コンプレックス、プライド、そして果てのない欲望――いっそのこと、すべてを捨て去って、欲望のおもむくままに生きることができれば、どれだけ楽だろうか。だが、そこまで狂うことができないからこそとてつもなく悲しく、空しい。あなたは本書に描かれた、ひとりの人間の深い絶望に耐えられるだろうか。(1999.12.02)

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