【角川書店】
『燃えるスカートの少女』

エイミー・ベンダー著/菅啓次郎訳 



 人間は主観の生き物である、という文句は、私がこの書評を通じてしばしば述べてきたことのひとつであるが、そうした主観――自分は他の誰でもない、まぎれもない自分自身であるという意識が、自分という存在をその肉体がもつ感覚によってしか実感できないものであるとすれば、ある意味で不幸なことである。というのも、もし私たちの外側に広大な世界、真実の世界が広がっているとしても、私たちにとらえることができるのは、自身の五官というフィルターをとおして認知された世界の断片にすぎず、私たちはいわば、自身の肉体という檻のなかに閉じこめられた生を生きているということになるからだ。人間が人間であるがゆえの寂しさ、自分が世界のあらゆるものから孤立している、誰ともつながっていけないという孤独感は、自他を区別する意識によってもたらされる。であるなら、人間が人間であるという事実は、あるいはそれほど素晴らしいこととは言えないのかもしれない。

 世の中にはじつに多くの人たちが暮らしていて、私たちは少なからぬ人たちとのつながりのなかで生きている。だが、そのつながりというものはいかにも頼りなく、脆弱で、ともすると容易に断ち切られ、見失ってしまいがちなものでもある。そうした感覚は、あるいは見も知らぬ赤の他人よりも、常にそばにいる親しい人たちに対して抱くものなのかもしれない。私たちはときに、ある人物について誰よりもよく知っていると思い込む。だが、そうした思いはしばしば相手の思いがけない言動で否定される運命にある。すぐ近くにいるにもかかわらず、その人と決定的につながっていくことができない、という感覚――それは、はじめからある程度距離を置いている場合よりも、はるかに自身の孤独を強めてしまうものだ。だが、にもかかわらず、人は人との結びつきを求め、自分が孤独ではないと思いたい。本書『燃えるスカートの少女』は、表題作を含む16の短編を収めた短編集であるが、いずれも人間が人間であるがゆえに抱えこまなくてはならなくなった孤独や哀しさ、そして、だからこそのいとおしさといった感情を切り取ったものである。

「アニー、わからないかな? われわれはみんなあまりに賢くなりすぎたんだよ。脳はどんどん大きくなるばかりだけど、考えがひしめきあって心が十分にないとき、世界は干上がり死んでしまう」

(『思い出す人』より)

 ある日、進化の逆をたどるように単純な生き物へと変化をはじめてしまった恋人、人魚と小鬼とのつつましやかな恋、体に穴のあいた父親と、死んだはずの祖母を産み落とした母親、火の手をもつ少女と氷の手をもつ少女――短編のなかのいくつかは、現実ではけっしてありえない不可思議な出来事や現象を、現実とのつながりのなかにもちこんでいくというマジックリアリズム的手法が用いられており、それが本書を印象づけるひとつの要因となっているのだが、それがたんなる幻想やファンタジーの領域としてではなく、あくまで人と人との関係における有り様を追求していくものとして考えると、ひとつの筋がとおったものとして見えてくるものがある。

 その点をもっとも端的に示しているのが『思い出す人』で、人間だった恋人が、ある日を境に猿に、さらに海亀や両生類といった動物へと退化していき、恋人のアニーはそれをただ見守ることしかできないというこの作品は、見方を変えれば恋人が人間どうしの関係性、そのつながりに絶望したあげく、人間であること自体をやめてしまったと受け取ることもできる。人間であるという意識ゆえに、愛しているはずのアニーと決定的なつながりを得ることができず、世界そのものがさびしいと感じてしまった彼に、アニーの愛の誘いは届かない。愛の営み、肉体が得る快楽――本書の短編集は、人間どうしの直接的な性行為や、そこから生まれてくる快楽といったものを描くことが多いが、それらの意味するものは、あくまで一時的なつながり、それも、お互いの肉体をこすり合せることによって、自身の肉体が感じ取る電気信号でしかない。そのことに対して絶望する男と、そんな絶望を理解することのできない女、という構図が、このうえない哀しさを呼び起こすことになる。

 人と人の関係における、永遠に埋まらない距離――すぐそばにいるにもかかわらず、そこに手が届かない、本当に欲しているものが手に入らず、お互いに何かひとつのものを共有することができない、という満たされない想いや焦り、あるいはある種の諦観といった感情が、本書の短編の根底にはある。『溝への忘れもの』に登場するスティーヴンは、戦争で唇を失くして妻のところに戻ってきたが、彼女は死んでこの世からいなくなったわけでもない、といって以前と同じ姿で戻ってきたわけでもない、中途半端な夫の存在をどう認識すればいいのか思いあぐねているし、『私の名前を呼んで』に登場する語り手の女性は、自分の女としての魅力で誘惑したはずの男性が、ドレスを切り裂き椅子に縛りつけておきながら性的関心をまったく示してこないことに困惑を隠せずにいる。『無くした人』の孤児の少年は、人々が無くしたものを見つけ出すという才能をもっているが、彼がその力を発揮できるのはあくまで物品に対してだけであって、いなくなった人間を探し当てることはできない。本書の短編集に登場する人たちは、あるいは父親と、あるいは母親と、あるいは夫や会社の上司と死別したり、離れ離れになったりすることがじつに多いが、それはそのまま、相手との永遠の断絶を意味するものだ。

 本書のなかで、女性たちはしばしばセックスをし、自身の肉体がもたらす快楽に身をゆだねようとする。だが、そうした性行為が失われたもの、無くしてしまった人と人とのつながりの代わりとして、ぽっかりと空いてしまった穴を埋めるようとするための行為であるかぎり、彼女たちはけっして満足を得ることはなく、かえって彼女たちの孤独が強まる結果となる。あくまで一時的なものでしかない、肉体がもたらす快楽――むろん、彼女たちはそのことを自覚している。だが、たとえ一時的なものでしかなかったとしても、自分がたしかにもっているものが自身の肉体である以上、その肉体をもって相手とのつながりを求めていくしかない、という思いもある。それゆえに、彼女たちのつながりを求めるセックスはどこか悲痛で、ヒリヒリしたものさえ感じさせるものがある。

 人間の心が求めるものが快楽であるとさだめたのはフロイトであり、それゆえに文化もまた人間の快楽を求める心が築き上げた人工的なものにすぎない、というきわめてペシミスティックな思考を展開したとされているが、どこまで行っても満たされることのない欠乏感とどのように向き合うのか、という問題もさることながら、その欠乏感をなんとかして満たそうとする強い欲望をとらえた本書は、その奇妙で不可思議な世界とは裏腹に、もっとも人間らしい姿を反映した短編集であるのかもしれない。(2008.05.29)

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