【宝島社】
『さよならドビュッシー』

中山七里著 



 たとえば、スポーツ競技で優勝した人の感極まった表情や、我を忘れたように全身でその喜びを表現する様子を見て、ついついこちらの涙腺までゆるんでしまうのは、その競技者の想いや背景が、競技する彼の姿からストレートに伝わってくるからに他ならない。国際大会やオリンピックといったビッグな大会ともなれば、それこそ世界じゅうからその力や技術を競う人たちが集ってくる。そんな猛者たちと競い、それらを打ち負かして頂点に立つためには、それこそ並外れた努力と苦難を乗り越えなければならなかっただろうことは、容易に想像することができる。私たちは競技の優勝者の姿から、彼がそこにたどり着くために、どれほど多くの困難や重圧と戦ってきたのかをありありと想像し、感化されてしまう。そうさせずにはいられないものが、人間の強い想いのなかにはたしかに存在するのだ。

 己の肉体を駆使して競技するスポーツの世界は、わりとわかりやすいひとつの例であるが、抑えることのできない人間の強い想いや意思の力は、ときに絵画や音楽といった芸術に姿を変えることがある。私たちの人生において、生きているうちは大なり小なりいくつもの困難や厳しい状況が待ちかまえている。できるなら苦労などしたくはないし、誰とも争わず、またお互いに傷つけるようなことも避けたいというのが、個人としては脆弱な人間の正直な思いであり、「生き延びる」という生存本能に基づく合理的な機能でもある。だが、ただ「生き延びる」というだけでは生きる意義を見出せない、というのも人間として生まれてきた者の運命でもある。そういう意味で、芸術という表現手段は社会生活を営む人間たちの知恵の産物だという言い方もできるだろう。だが、たんなるケンカや国家どうしの戦争も、スポーツによる競技も、そして芸術も、けっきょくのところその根底にあるのは、人間が人間であるがゆえに持たずにはいられない想いや感情の強さから生まれてくるものだ。

 今回紹介する本書『さよならドビュッシー』は、いろいろな意味で「二重性」という要素がひとつのキーワードとなってくるところがある。それはたとえば、ミステリーにおける表層と真相という二重性であり、人の心における主観と客観の二重性であり、また人の想いが生み出すものの明と暗、という意味での二重性でもある。そしてこのさまざまな「二重性」がうまく絡み合い、機能していくことで、ひとつの物語として「感心」ではなく「感動」を呼ぶ構造が生み出されている。

 本書の語り手である香月遥は、今年の春から私立の音楽学校に通うことが決まっている十六歳の少女。父親の徹也はごく堅実で真面目な銀行員だが、祖父の玄太郎が相当の資産家ということもあって、環境的にはかなり恵まれた家の娘として育ってきた。三十なかばにしていまだ定職についてない叔父の研三や、インドネシアで暮らしていたものの、スマトラ島沖地震で両親を一度に失った従姉妹、片桐ルシアの養子縁組問題など、いろいろ問題はあるものの、金銭的には何ら不自由なく、遥もピアニストとしての夢を追っていけるはずであった。だが、そんなあたり前だった幸福は長くはつづかない。祖父の住んでいた離れが深夜に炎上、遥はその火事に巻き込まれ、全身火傷の重傷を負ったが、長時間に及ぶ手術の結果、奇跡的に命を永らえた。だが、ようやく意識を取り戻した遥を待っていたのは、祖父とルシアの死亡という知らせであり、また自分の体がもはや以前のものではない、というつらい現実だった。

 大部分の皮膚を移植した体は歩くことや食事をすることさえままならず、ましてピアノを弾くなど絶望的な状況で、それだけでも理不尽極まりない出来事であるが、そのうえ祖父の死によって望んでもいない資産を引き継いだものの、その資産は祖父の遺言により、音楽関係のことにしか使えないという条件がついている。身障者というハンディをかかえ、それでもなおピアニストを目指さなければならないという、十六歳の少女としてはあまりにも大きな転落、あまりにも大きな困難を前に、何もかもが挫けてしまいそうになる遥に、ピアノの指導を申し出た男がいた。彼の名は岬洋介。国内の名だたるコンサートを総なめにしてきた新進気鋭のピアニストだ。

「――たった二小節弾くだけで君は何度も痛みで顔を顰めた。でも病気だろうが怪我していようが関係ない。辛くても苦しくても身体が痛くても、一旦ステージに上がればそれを理由に演奏を中断することは許されない。それでも君はまだピアニストを目指すのかい?」

 こうして本書のあらすじを追いかけていくと、私たちは容易にひとつの物語の筋書きを思い浮かべることができる。それは「多くの困難を乗り越えて大きく成長する少女」の物語であり、「その大成を支える才能ある指導者」の物語である。その想像はけっして誤りではないし、じっさいに本書を読み進めていくと、作品の随所にそうした要素がちりばめられていることに気づく。身障者となったがゆえに見えてくる社会のとげとげしさや、マイノリティに対する不親切さ、勝手なイメージを押しつけている他人、人の不幸をネタにおこなわれる陰湿ないじめなど、これでもかというほど遥に対する逆境が用意されているうえに、何者かによって命すら狙われているというありさまだ。周囲の環境は、遥にとってけっしてやさしいものではない。にもかかわらず、彼女はさらに困難な道のりを自ら選択しようとしている。その反骨精神がどこから生まれてくるものなのか、ということをあらためて考えたとき、上述した「二重性」という言葉がはじめて大きな意味をもつようになる。

 たとえば岬洋介は、将来を有望視されているピアニストであるが、彼の父親は法曹界では有名な検事正であり、また彼自身、司法試験をトップ合格するほどの才能を持ち合わせていたにもかかわらず、ピアニストとしての道を選んだという二重性をもった人物である。この彼のキャラクター設定は、遥の身の回りで起きたちょっとした出来事から鋭い洞察力で物事の真理を見極める、探偵として不可欠な要素を違和感なくもたせるためのものとも言えるが、それ以上に読者にとって印象的なのは、むしろ彼が突発性の難聴という障害をかかえているということである。そのいつ起こるかわからない障害は、いったんは彼にピアニストの道を断念させた。周囲の人たちも、彼が法曹の世界で活躍することを望んだ。だが、彼は自分の本当に望むものに対する回答として、ふたたびピアニストとしてピアノを演奏するという道を選んだ。そしてその決死の想いは、そのまま彼の奏でるピアノの演奏に反映していく。

 人となりと魂はきっと別々なのだろう。――(中略)――音楽や絵画はそんな魂を形にして表すものだ。だからその瞬間、表現する者は本来の自分と対峙することができる。他人にだけでなく、己に向けて訴えるために音楽家は曲を奏で続け、絵描きは筆を振るい続ける。

 本書に登場する人たちは、良くも悪くも見た目や表面上の振る舞いとは裏腹な内面を隠し持っていることが多い。それゆえに本書には多分にミステリーとして要素が含まれているわけであるが、むしろ外面的なものと、人間の心の秘められたものとのあいだに生じる「二重性」というものを強調しているところがある。焼けただれ、皮膚移植によって別人のような容姿になってしまった遥もまた同様だ。何度も絶望し、何度も逃げ出したくなったにもかかわらず、それでもなおピアニストになることを望み、コンクールのためにピアノを演奏し続けていくその想いの強さは、もちろん岬洋介という強烈な指導者の影響もあったに違いない。だが、最終的に何かを決定するのは、他ならぬ自分自身の意思である。その意思の強さ、そしてその魂を反映するピアノ演奏が、はたしてどこからやってくるものなのか、という究極の謎解きに、おおいに驚愕してもらいたい。(2010.03.21)

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