【新潮社】
『グレート生活アドベンチャー』

前田司郎著 



 ご存知の方はご存じだろうと思うが、私は子供のころ、読書少年ではなくゲーム小僧だった。それも、いわゆる「ファミコン」などの家庭用ゲーム機や、当時は高価だった「マイコン」のゲームといった、ともすると、外で元気に遊ぶこととは悪い意味で比較されがちな遊びに夢中になっていた、「不健全な」子どもだった。そうした子ども時代の影響は、すっかり大人となり、ゲームから離れがちになっている今になっても微妙な影を落としている。たとえば、小説や漫画のなかに、TVゲームの王道というべきロールプレイングゲームのパロディを見つけると、思わず反応してしまう、といったように。

 剣と魔法の世界で、巨大な悪を討ち果たすために冒険の旅に出る選ばれた勇者、というストーリーは、日本では旧エニックスの「ドラゴンクエスト」シリーズが有名で、私も友人と競うようにプレイしていたのを覚えているが、このゲームの世界は当たり前のことながら偽物の世界、仮想世界でしかない。だから、この仮想世界をそのまま現実世界の出来事としてあてはめるのは筋違いであるし、それでも無理やりにあてはめていこうとすれば、かならずどこかでゆがみが生じることになる。勇者が勝手に他人の家にあがりこんで、箪笥や壺のなかを調べたり、町の住人が入口のところで同じセリフしか言わなかったり、そもそも住人の数が少なすぎたりなど、それこそパロディというべき混沌と化してしまう。

 だがここで、ゲームという形で表現されている仮想世界が存在する、と仮定してみる。あるいは、現実世界をゲームにする、という考え方でもいい。ゲームの世界を現実世界にもちこむことに無理があるのは、あくまでゲーム機という表現の限界だととらえるのだ。もしゲーム機の性能がもっともっと上がっていけば、そこに再構築される世界はどんどんリアリティを増すことにならないだろうか。そしてそうなれば、現実世界とゲーム内の仮想世界の差は縮まり、そのうちそのどちらの世界がリアルなのか、という問題意識そのものが意味をなくしていくのではないだろうか。

 この世界の通貨Gは2億Gほど持っていても、ポケットを探ると1432円しかなかった。円とGの両替ができればいいのに。今、1G何円くらいだろうか?

(『グレート生活アドベンチャー』より)

 本書『グレート生活アドベンチャー』は、表題作のほかにもう一編『ゆっくり消える。記憶の幽霊』という短編を収めた作品集であるが、その表題作の冒頭「僕は東京に生まれた。」という文章の次に、いきなり「ちょうど魔王のいる洞窟に入ろうとしているところ。」などと続いており、読者はいささか面食らうことになる。

 つまり、一人称の語り手である「僕」のなかでは、ゲームの中の世界と現実世界とのあいだにあるはずの優劣や重要度といった区切りを、意図的に廃するような思考が成立していることになる。現実世界の「僕」は、三十歳にもなって定職にもつかず、ただ寝たり起きたりゲームしたりといったフラフラした生活をつづけている。当然、家賃はおろか、ともすると日々の食事すら事欠くようなありさまなのだが、にもかかわらず現実的な危機感がいまひとつ乏しく、今後のことについても、まるで他人事のようにしか思っていないようなところがある。そうした現実世界に対する、良くも悪くもいい加減な「僕」の性質は、たとえば加奈子のような、男にとってじつに都合のいい存在のように思える女性がいるから、というには、あまりにも能天気すぎるところがある。

 「僕」がもっているロールプレイングゲームの世界にしろ、加奈子がもっている少女漫画の世界にしろ、「僕」は現実世界とまったく同じような思考をし、アクセスしていく。あまりにもあっさりと虚構と現実の境目を跳び越えてしまうので、ともすると読者のほうが困惑させられることになるのだが、ゲームの世界の通貨を円に換算してみたり、魔王が待っている洞窟をコンクリートで埋めてしまえばいいのではと考えたり、あるいは少女漫画の主人公は自分のことしか考えていないと分析してみたりと、妙に現実味溢れる思考を展開していくその態度が、「僕」の現実世界に対する希薄感と呼応していると考えれば納得がいく。ようするに、現実世界の圧倒的なリアルさから目をそらし、ゲームや漫画といった虚構世界のなかにリアル感をもちこむことで、ふたつの世界のバランスをとろうとしているのだ。そして、ふたつの世界におけるリアリティの差が縮まれば、それだけそのあいだに横たわっている境界線もまた見えにくくなる。

 世界がふたつあるとすれば、そこには必然的に差異が発生し、それがおのずから境界線を生むことになる。こうした対極にあるものの境界という意味では、もうひとつの作品である『ゆっくり消える。記憶の幽霊』のほうが意識的だ。なにせ、この作品のなかで流れていく時間は、ひとりの女性がどこかの崖から身を投げて、海面に叩きつけられるまでのあいだのみ。ほんの一、二分にすぎない時間の事柄をひとつの作品として書いてしまうということ自体、驚くべきことであるが、そこにあるのは、生と死という対極のはざまを――そのかぎりない曖昧な部分を描いていくという明確な意図だ。

 だから、もし仮にわたしが一生Aさんの死亡記事を見ないでいたら死んだはずのAさんはわたしの中ではずっと生きたままで、――(中略)――この現象をうまく利用すればわたしは死んでいるのに、みんなの中ではなんとなく生きているということになっている状況が作れるのだ。

(ゆっくり消える。記憶の幽霊より)

 今まさに死のうとしている語り手のなかで、唐突にお尻がどうとかいう思考が展開されたりして、この作品のなかでも現実に乏しいところが見受けられるのだが、そうすることによって、彼女のなかでの生と死の境界はかぎりなく曖昧になっていき、やがてそのどちらでもない、宙ぶらりんな時空間が生まれてくることになる。そしてこの、どちらの側にも属していない宙ぶらりんな状態というのが、本書の作品に共通するテーマだと言える。現実でも仮想でもない世界、生でもなく死でもない状態――それはたしかに、私たちにとっては想像を超えた地平である。

 そういう意味で、本書はこれまでにない独自の領域を構築しようとしている作品ととらえることができる。その成果がどの程度のものなのかはとりあえず置くとして、そうした大胆な試みについては、おおいに評価してしかるべきだと私は考える。(2008.03.05)

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