【講談社】
『震える岩』

宮部みゆき著 

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 物事の真実というものが、ある人にとってはときに残酷で非情なものであるということは、この書評をつうじて何度か繰り返してきたことのひとつであるが、これをミステリーというジャンルの作品に当てはめたとき、物事の真実というのは、事件の真相を推理するという行為の結果として提示されるものである。たとえば、ある作品のなかで殺人事件が起こったとき、もしその事件が迷宮入りするようなことになれば、被害者が被害者として殺された意味は永遠に失われたままであり、その人の死そのものがその世界において無意味なものと化してしまう。

 私たちはしばしば、残酷で無慈悲な物事の真実よりも、自分たちにとって都合の良い事柄だけを真実として選びとってしまう弱い生き物であるが、こと殺人事件の要素がからんでくるような場合、真実を見失うことは、殺された人間の人間性を見失うということになる。その作品のなかで殺された被害者を、ただの「死人」や「被害者」という抽象的な対象から、たしかに私たちと同じように生きていたひとりの人間として、その尊厳を復活させること――あるいは大袈裟なもの言いかもしれないが、ミステリーのなかで提示された謎を解き、真犯人を探し出すというのは、本来非常に人間味あふれる行為であるはずなのだ。そしてまた、それまで曖昧で、それゆえに中途半端なままであった事柄に、きちんとひとつの区切りをつけることで、事件に巻き込まれた人々に新たな一歩を踏み出させるきっかけを与えることにもつながっていく。

 ミステリー、とくに本格ミステリーと呼ばれる作品のなかで、いかに意想外なトリックをしかけ、読者を良い意味で騙していくか、というのも、もちろんミステリーの醍醐味のひとつであるが、その点に注力すればするほど、ともすると殺人事件の被害者を、まさにそのトリックの一要素としてのみ扱うことになりかねないという矛盾が常につきまとうことになる。今回紹介する本書『震える岩』は、そうした矛盾を無理なく解消しつつ、ミステリーとしても、また物語としてもきれいにまとめることに成功した作品だと言うことができる。

 サブタイトルに「霊験お初捕物控」とあるように、本書の舞台は江戸時代の深川であり、主人公であるお初は、表向きは一膳飯屋「姉妹屋」を兄嫁とともに切り盛りしているが、裏では南町奉行所の根岸肥前守の命のもと、町中の不思議な出来事や奇妙な風聞の出所を調べ、その詳細を報告する仕事に従事していた。じつは彼女には、ふつうの人には見えないものを見たり聞いたりする霊感めいた力があり、しばしばその力で兄である六蔵の岡っ引き稼業に助言を与えたりしていたのだが、そうしたことを続けているうちに、根岸肥前守の耳にも届き、今に到っている。もっとも、彼女の報告がじっさいの捕物につながることは滅多になく、せいぜい根岸肥前守が趣味で記録している「耳袋」のネタになる程度のことでしかないのだが。

 今回彼女が調査することになったのは、三間町の十間長屋で起きた「死人憑き」騒ぎの一件。ろうそくの流れ買いを商売とする吉次が急な病で死に、通夜まで済ませたにもかかわらず、突然ひょっこり起き上がって、何事もなかったかのように暮らしているという。はたして、吉次はたんに息を吹き返しただけなのか、それとも噂どおり本当に「死人憑き」なのか。

 江戸時代を舞台とする時代小説でありながら、超能力めいた異能の力というSF的な要素を併せ持つのが本書を大きな特長のひとつであるが、彼女のもつ力はけっして万能というわけではなく、彼女が見通すことができるのは、あくまで一連の事件につながる断片にすぎない。たとえばお初は「死人憑き」の件を調べにいく途中、唐突に油問屋の大樽のなかに子どもの死骸が浮いているのを「見て」しまうのだが、この一件からもわかるとおり、お初の霊感は時と場所を選んでくれるわけではなく、またその対象を意識して選べるわけでもない。じっさいは、その子ども殺しの下手人として、「死人憑き」の噂となった吉次が結びつくことになるのだが、ともすると見逃してしまいそうなささいな情報から、そのつながりを見出す役目を負う者として登場するのが、吟味方与力の父をもつ古沢右京之介という若者である。

 町方与力のなかでも花形職である吟味方与力で評判も上々、さらに直心陰流の遣い手であり、「赤鬼」の異名とともに恐れられている父親とは異なり、この古沢右京之介という人物は、お初の第一印象としては「なんだか立ち枯れした胡瓜のような頼りのない若者」というものである。根岸肥前守の命でお初と行動をともにすることになったものの、どこか世間ずれしたところがあったり、目につく神社の境内にかならず立ち寄ったりと、何かと変わったところが目立つ若者であるが、お初が見通す物事の断片から、ときに思いもよらぬつながりを導き出す洞察力の鋭さを見せるのは、たいてい彼の仕事であったりする。

 本書を読んでいくとおのずとわかってくることであるが、この物語のなかでは、お初の霊感をはじめ、幽霊や怪奇現象といった超常現象がごくあたり前のように書かれているが、お初と右京之介のふたりが車の両輪となることで、はじめて物語は百年前に起こった赤穂浪士の討ち入りの真相という、意想外なところへと結びつく事件として疾走しはじめることになる。けっして万能ではないどころか、下手をすればその異能ゆえに精神をもおかしくさせられかねないお初と、本来は算術に打ち込みたいという希望を持ちながら、父親の威厳に逆らえないでいる右京之介――いずれも、ままならない流れに押し流されそうになりながらも、なんとか踏ん張って生きているようなところがあるのだが、そんな彼らだからこそ、まるでお互いの足りない部分を補い合うかのように、一連の事件の真相へと迫っていこうとする姿には、強い人間ドラマを感じさせるものがある。

「面白い話は、たとえ嘘であったとしても流布しやすいものです。また、嘘というものは、時として、真実よりもわかりやすく美しい形を持っているものです。残酷ではあるが、それが世の真実のひとつ」

 百年前に起こった赤穂浪士の討ち入り――「忠臣蔵」という名のもとに、主への忠義をつくす美談として大人気の物語の影に、逆らうことのできない運命に翻弄され、ありうるべき人生を狂わされることになった人々がいた。死してなお晴れることのないその強い妄執に、お初の霊感と右京之介の洞察力が、はたしてどのような結末を導き出すことになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.05.09)

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