【光文社】
『舟を編む』

三浦しをん著 

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 たとえば「嘯(うそぶ)く」という言葉がある。私がこれまで読んできたいくつかの小説のなかで見かけたものであるが、なんとなく「小声で心情を吐露する」くらいの意味合いかと思っていたその言葉が、辞書で調べると「大声で叫ぶ」とか「自信たっぷりに言う」など、むしろ逆の意味をもつということになっていて、けっこう驚いたことがある。「気のおけない」や「おっとり刀」についても、その語感から「油断がならない」「のんびりと」というふうになんとなく判断していたのだが、いずれもまったく逆の意味で使われているのを知ったのは、やはり辞書を引いてみた結果である。

 小説を読んでいると、いろいろと知らない単語と出くわすことがある。むろん、その前後の文脈からなんとなく意味合いが類推できるものもあるし、上述の単語のように、まったく逆の意味合いであるものの、とりあえず文章としてつうじてしまうことに勝手に納得し、そのまま読み進めてしまうこともある。だがある言葉について、その正しい意味を知っているのと知らないのとで、どちらがより深い理解へと到達できるかは言うまでもないことだ。

 言葉の意味を知る――とくに、その言葉の語源を知るという行為は、言葉を使いこなすためには大切なことのひとつである。しかしながら、私にとっての「嘯く」がそうであるように、ある単語の意味を知っているということと、その単語を自分の言葉として使いこなすことができるということとは、また違う次元の問題だというのが、言葉のややこしいところであり、また面白いところでもある。

「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう」

 今回紹介する本書『舟を編む』は、そのタイトルが意味するように「辞書を編纂する」ことに主眼を置いた作品である。大手総合出版社である玄武書房の辞書編集部で長く辞書づくりに携わってきた荒木公平が、日本語研究家の松本とともに立ち上げようとしている新しい辞書「大渡海」――たんなる国語辞典というだけでなく、ことわざや専門用語なども収録した、百科事典としても活用できる辞書の編纂は、構想二年目にして荒木の定年退職という難局に直面する。なんとしても、自分の後継者となる若者を見つけなければならない――そんな彼が、同じく辞書編集部の若手である西岡正志の情報をもとに接触した「辞書向きの人材」、それが、営業第一部にいた馬締光也であった。

 大学、大学院と言語学を専攻し、言葉に対して人一倍鋭いセンスの持ち主でありながら、律儀がすぎてトンチンカンな言動を繰り返し、周囲から変人あつかいされているという馬締は、まさに辞書編纂のために存在するかのような人物であり、物語のなかでも重要なキーマンとしての役割をはたす。ふだんは飄々としていて、他人の評価など気にもかけていない風情なのに、こと言葉の定義という点にかんして、驚くべき集中力とこだわりを見せる――こんなふうに書いていくと、まるで本人でさえ気づいていなかった才能を開花させていくスポーツ漫画のような展開を思い浮かべるかもしれないが、本書で重要なのは、馬締にしろ、荒木や松本にしろ、決して完璧な人間というわけではなく、むしろ欠点のほうが目立つただの人、というよりは、その変人ぶりこそが強調されている点である。

 たとえば辞書というものに私たちがいだくイメージは、言葉の権威であり、クソがつくほどの真面目な、お堅い本というものだ。私たち人間の歴史とは、言ってしまえばそれまでにない新しいもの、混沌としたものに名前をつけることで秩序づけ、自分たちの世界に属するものとして取り入れることの積み重ねである。言葉を情報伝達やコミュニケーションの道具として、正しく使いこなすための、その定義を記した辞書は、そうした人間の営みの集大成であり、人間の知恵の象徴でもある。だが、本書を読み進めていくとおのずとわかってくることであるが、人間が言葉を道具として使いこなすための辞書は、けっして完璧なものではない。そしてそれは同時に、人間という生き物がけっして完璧でないということにもつながってくる。なぜなら、辞書を編むのもまた、他ならぬ不完全な人間でしかないからだ。

 辞書は必ずしも万能ではないと知り、荒木は落胆するどころか、ますます愛着を深めた。かゆいところに手が届ききらぬ箇所があるのも、がんばっている感じがして、とてもいい。けっして完全無欠ではないからこそ、むしろ、辞書を作ったひとたちの努力と熱気が伝わってくるような気がした。

 馬締光也という人物にしても、言葉に対する知識やその探究心の深さは相当なものであるが、その知識が肝心の情報伝達やコミュニケーションのうまさとして反映されているわけではなく、むしろ真面目に考えすぎてあさっての方向に飛んでしまうような困った性格になってしまっている。そう、人間が言葉を使いこなす――その象徴としての辞書というのは、ある意味で人間の傲慢さの表われでもあるのだ。

「もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために」、馬締たちは新しい辞書を編纂しようとしている。だが同時に、彼らはその理想がけっして人間の力では到達しえない領域であることもちゃんと承知している。言葉は人間に使役される道具ではなく、むしろ人間が言葉に使われ、振りまわされる存在であるという感覚は、ふだんから文章を書くという経験を積んでいる方であれば理解できると思う。たとえばこの書評にしたところで、最初から完成された文章が頭のなかにあって、それを書き写しているというわけではなく、むしろ漠然とした思いや感情を、とりあえず書評として書き出してみて、はじめて自分はこの本に対してこんな考えをもっていたのか、と気づかされることが圧倒的だったりする。

 言葉は常に移り変わっていくものである。せっかく長い年月を費やして辞書を完成させても、すぐに改訂や増補といった対応に追われるという現実は、まるで言葉がけっして人間の手によって捉えられないものであることを見せつけるかのようでさえある。だが、それでも本書の登場人物たちは、その不完全な辞書を完全なものに少しでも近づけようと尽力することを止めはしない。そういう意味で、本書は辞書づくりの話である以上に、その辞書づくりに携わる人々の、じつに人間臭い物語なのだと言うことができる。はたして、言葉の海を渡る頼もしき舟としての「大渡海」は完成させられるのか? 私たちがしかるべき指標として頼りにしている辞書が、こんなふうにつくられるのだという新鮮さもふくめ、その人間ドラマをぜひ楽しんでもらいたい。(2012.10.19)

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