【新潮社】
『遺失物管理所』

ジークフリート・レンツ著/松永美穂訳 



 私にとって電車の網棚は危険な場所である。なぜなら、そこに荷物を置いたが最後、私はそこに他ならぬ自分の所有物を置いたという事実を忘れてしまうからである。せっかく旅先で購入したお土産を、うっかり網棚に置いたまま電車を降りてしまった、という経験も一度や二度ではない。そしてそうやって置き忘れてしまったものは、ほとんどの場合戻ってくることはない。おそらく悪意の第三者か、置き忘れの雑誌などをターゲットにしているような人たちによって、勝手に持ち去られてしまうのだろう。駅員に連絡して、置き忘れたはずの場所を調べてもらったこともあったが、そこに荷物がそのまま残っていた、という経験は、今のところない。

 物にしろ人にしろ、あるいは信用や名誉といった目に見えないものにしろ、何かを失くしてしまうのはあまりに容易いのに、その失くしてしまったものをもう一度取り戻すのは、想像以上に難しい。なぜなら、一度失くしたものを取り戻すという行為には、当人の努力以上に第三者の善意が大きく絡んでくるからだ。偶然拾ったものをこっそり自分のポケットにしまうのは一瞬のことだが、その持ち主が困っているだろうと想像し、その見ず知らずの人のためにしかるべき手続きを行なうというのは、何であれ面倒なことでもある。本書『遺失物管理所』はその名のとおり、ドイツの連邦鉄道の、列車の中や駅などに置き忘れてしまったさまざまな遺失物を一時的に預かり、落とし主が名乗り出たときにその遺失物を見つけ出して返すという手続きをおこなう部署を舞台とした物語であるが、失くしてしまうことと、再び見つけ出すことの関係を考えたとき、たしかに列車を利用する人々に必要とされているがゆえに存続している部署なのだろうが、それ以上に人間の善意というものに大きく左右される、なんとも不思議な力学がはたらく場でもある、という事実にふと気づかされてしまう。

 あんな物がここに届けられるたびに、ただそれを登録するだけでなく、どうして失くしたんだろうと思わず自問してしまうんです。想像してしまうんですよ。急いでいて置き忘れたのかな、とか、けんかでもしたのかな? なんてね。

 本書では、この「遺失物管理所」に異動になったヘンリー・ネフという若者を中心に物語が展開していくことになるが、連邦鉄道においては「後方部隊」であり、キャリアとも出世とも縁のない部署であるにもかかわらず、そうした欲望にいっこうに興味のないヘンリーは、ただ気持ちよく仕事ができればいい、と上司のハネス・ハルムスに語る。じっさい、彼にはどこか子どもっぽい無邪気なところがあって、たとえば失くしたものが届いていないかとやってくる落とし主に対して、自分がその遺失物の持ち主であることを証明してもらうためにちょっとした遊び心をくすぐられずにはいられない。それは、あるいは商売道具のナイフを取りに来た大道芸人に対して、じっさいにナイフ投げを披露することを要求したり、台本を忘れた舞台女優に対して、台本中のセリフを暗誦させたりといった形で発揮される。そうしたヘンリーのお茶目な性格が物語の大きな魅力であることに間違いはないのだが、それ以上に重要なのは、他ならぬ「遺失物管理所」という場所がもつひとつの性格である。

 新品同様の乳母車、入れ歯、僧衣、帝国時代の古い旗、鳥かごに入った鳥――「遺失物管理所」には、しばしばどうやったら失くしてしまえるのだろう、と思わずにはいられない奇妙な遺失物が届けられる。それらはヘンリーにとって大いに想像力をかきたてられる物でもあるのだが、「遺失物管理所」はあくまでこれらの落し物を預かるだけであって、けっして所有するというわけではない。それは、言い換えれば物を左から右へと移していく手続きをする場であり、その行き先は、たとえば落とし主のもとだったり、オークションで競り落とした客のもとだったり、あるいはごみ処理場だったりといろいろだが、どんな遺失物もけっしてこの「遺失物管理所」内にとどまることがない、ということでもある。

 およそ「所有」という概念とは無縁の世界である「遺失物管理所」――それは、そのままヘンリーという人物の性質にもあてはまるものである。失くしてしまったものは失くしてしまったものとして、いつまでもくよくよしたりしないと語るヘンリーにとって、ほとんどの物は交換可能だという持論は、自身の出世や以前いた職場にかんしてもとくに未練がましく思ったりしない、ある意味でさばさばしたその性格にも表われているのだが、もしすべての人間がヘンリーのような性格であったとしたら、そもそも「遺失物管理所」という場所など必要とされないはずなのだ。

 たとえば、本書のなかでは多額の現金が中に隠された人形が遺失物として届けられるのだが、あきらかに何らかの犯罪と関係ありそうなその人形について、そこから何か大きな事件にヘンリーが巻き込まれる、といった展開になることはない。それは、「遺失物管理所」があくまで物を預かるだけの場所であることを示すエピソードでもあるのだが、それは同時に、落とし主にとっては他ならぬその人形だけが価値のあるものであり、けっして交換可能なものではない、ということでもある。落とし主にとって、もしかしたら特別な意味をもつかもしれない落し物をあつかう「遺失物管理所」――それゆえに、本書では落し物と落とし主とを結びつける特別な人間ドラマがいくつも展開していくことになる。そして、そんな「遺失物管理所」の性格は、しだいにヘンリー自身のものの考え方にも影響をおよぼすことになる。

 遺失物管理所は彼にとって、ときに運命が出会い、交わるところのように思われた。いまとなっては彼には、サラトフから来たあの男は、自分と出会うために書類を失くしたような気さえするのだった。

 遺失物をつうじて親しくなった有能な学者、落し物の主を特定するエキスパートである気難しい老職員、ヘンリーが好意をいだく有能な女性職員――彼が「遺失物管理所」に来てから出会った人たちのと体験は、けっして交換可能なものではない。だが、それでもなお彼の人生がつづくあいだ、彼をとりまく人たちの顔ぶれは常に変化していく。出会いは同時にいつか来る別れのはじまりであり、それはあるいは、「遺失物管理所」に届けられる落し物と同じようなものであるのかもしれない。そう、たとえば管理所に届けられる無数の傘は、どれも似たような、それこそ交換可能な傘のように見えても、そこからつながっていく落とし主にまつわるエピソードについて、同じものなど何ひとつないように。

 失くしてしまったものは、大抵の場合再び落とし主のもとに戻ってくることはない。それゆえに、私もふくめた人たちは、失くしてしまった物について、いともあっさりとあきらめてしまう。だが、もしかした私たちが失くしてしまった物は、「遺失物管理所」のような人々の善意によって成り立っている場所で、落とし主が来るのを待っているのかもしれない。そんな想像は、人々の心をほんの少しだけ、あたたかな気分にしてくれるに違いない。(2006.12.15)

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