【文藝春秋】
『風味絶佳』

山田詠美著 



 面白そうだと思って手にとった小説の内容が、思いがけず濃厚な恋愛小説だった場合。

 どんな本でもどこか褒めるべきところがひとつはある、という信条のもと、さまざまな小説やノンフィクションを読んでせっせと「褒める書評」を書くことが、なかばライフワークと化している私だが、もしもっとも苦手なジャンルがあるとすれば、それは恋愛をあつかった作品ということになるだろう。

 ある男性が特定の女性に強く心惹かれていく。ある女性が特定の男性に恋焦がれていく。それまで見ていた世界そのものがひっくり返されるほど、特定の誰かを手に入れたい、独占したい、という激しい感情のほとばしりを、おそらく私はこれまで一度も体験したことがない。もちろん、私だって男であるからには、好みの女性像といったものはあるし、また魅力的な異性に対する性的欲求だってもちあわせている。というよりも、けっきょくのところ男たちの「好きだ」という感情の大半は、「女と寝たい」という本能にもとづくものではないか、とさえ思っているのだが、だからこそ恋愛小説のなかで展開する、男女の燃え上がる感情の高ぶりは、そんな私を翻弄し、ときに戦慄さえさせるものでもある。人と人との関係を描くのが小説の基本にあるからには、恋愛小説はその最たるものだと言えるが、ときに自分も周囲にいる人も傷つけてでも、自分が愛する人との関係をより深めていくことにすべてを注ぎ込もうとする狂おしい恋愛感情は、私にとっては常に神秘に満ちた領域だと言ってもいい。

 か弱い女性を守ってあげたい、という感情ならわかるし、精神的に力強く生きている女性への憧れ、という感情もよくわかる。だが、誰かに恋をする、というのがどういうものなのか、おそらく本質的な部分でわかっていない私にとって、恋愛とは一種の恐怖でもある。そして、だからこそ恋愛小説を書評するということに、私は常に後ろめたい気分をいだく。ただの友達だったり、知り合いだったり、あるいは同じ職場で働いているというなんでもない関係から、恋がめばえ、それが愛に変わる過程には、かならず相手のことをもっとよく知りたい、という願望があり、それは同時に自分のことを相手にもっとよく知ってもらいたい、という願望ともつながっている。誰かに恋をするというのは、自分のもつ良いところも悪いところもすべてさらけだす、ということであり、それは私にとっては大変な勇気のいることだ。その勇気を――身も蓋もなく誰かに恋をするという勇気を、私はこの上なく尊敬する。

 山田詠美が書く小説が、たんに「恋愛小説」である以上の何かを含んでいると気づかされる場合。

 今回紹介する本書『風味絶佳』にかぎらず、山田詠美の本を読むとき、とりあえず私は冒頭のような不意打ちからは解放されることになる。なぜなら、著者の書く小説はほとんどの場合、恋愛が物語にからむことがわかっているからである。おそらく、著者にとって恋愛をすること、恋愛をテーマに小説を書くことは、息をするのと同じくらい自然なことなのだ。そして、この世に数多くある恋愛小説のなかで、恋をしている男女の姿が本当に微笑ましく、またすがすがしく思える作品は、おそらく著者の書くものだけである。

 じっさい、本書に収められた六つの短編集に登場する人々は、何のてらいも躊躇もなく相手を好きになり、それこそ息をするかのように相手にすべてをあずけて飛び込んでいく。『間食』に登場する花は、とび職の青年雄太とじゃれ合うような愛をかわし、また加代は雄太の足りないものをすべておぎなっていく母親のような存在として、彼と同棲するという関係をもっている。『夕餉』の美々ちゃんは、既婚女性であるにもかかわらず、都内のごみ収集作業をする青年紘と恋におち、夫のもとを飛び出して彼と生活をともにしている。『アトリエ』は、おもに排水槽や貯水槽の清掃をおこなう男の視点が主体の作品だが、その裕二もまた麻子という女性と恋に落ちて結婚し、この上なくいつくしみたいという気持ちで接することを忘れない。そこにあるのは、気持ちのいいほど「二人だけの世界」にはまり込んでいる男女の姿である。そして、なぜ彼らの恋愛の様子がすがすがしいのかと考えたときに、読者はきっと気づくことになる。本書に登場する女性たちが、いっけんすると相手の男性に依存しきっているように見えながら、じつは男性以上に強い意志をいだいて恋愛をしている、という事実に。

 証明したかったのだ、と思った。使い終わったそれまでの人生が無駄ではなかったことを。もう一度生き直すには、あやふやな観念なんてお呼びじゃない。食べること。セックスすること。眠ること。彼のそれらの行為に、自分が、どの女よりも有効であるのを確認したかった。

(『夕餉』より)

 ままならない恋愛、ままならない人生に振り回されても、なお強くありつづけるためには、どうすればいいのかと思い悩む場合。

 本書のタイトルにもなっている『風味絶佳』は、上述の三作品とはちょっとおもむきが異なっている。大学進学ではなくガスステーションに就職を決めた志郎が、その職場で見つけたアルバイトの女の子に恋をして付き合いはじめる、という流れは変わらないが、その恋愛は最終的には実ることなく終わってしまうことになる。ようするに志郎は失恋してしまうわけであるが、本書のメインは志郎というよりも、むしろ彼の祖母である不二子だと言っていいだろう。横田基地のそばでスタンド・バーをひらき、アメリカかぶれで孫に自分のことを「グランマ」と呼ばせ、そしていつも助手席に若い男を乗せてカマロを走らせている七十過ぎの不二子は、その歳になってなお「老人」ではなく、「女」としての生を生きつづけている、という意味で非常に強烈なキャラクターであるが、そのエネルギーがどこから来ているのかといえば、彼女がそのまでの人生で経てきた数々の恋愛の――けっして甘いものだけではない思い出であることは間違いない。そして、その思い出は、彼女にとっては過去のものではなく、現役でありつづけている。老人は老人らしく、などという世間体などどこ吹く風というふうな、彼女の自由奔放な生き方は、けっして不快なものではなく、むしろ読み手に羨望さえいだかせるものである。

 世間体との対立がもっとも顕著な『春眠』は、同じ大学の同級生だった女性で、章造がひそかに想いを寄せていた弥生が、こともあろうに章造の父親と結婚してしまうという展開であり、それまで威厳のあったはずの父親が、すっかり弥生との蜜月におぼれてしまっている姿に、章造はいらいらさせられっぱなしという話であるし、『海の庭』では、夫と離婚して実家に戻ってきた母が、今は引越業者ではたらいている幼なじみの男性と親しくなっていく様子を、娘の視点から描いたものである。そこにあるのは、見様によってはなんともみっともない恋愛の形であるが、逆にいえば、本書に書かれた恋愛は、世間体や観念などで左右されることのない、純粋な心の感情であり、だからこそそのみっともなさすらも美しい恋愛として成立してしまう、ということでもある。そもそも、最初に紹介した三作品にしても、けっしてその蜜月がそのまま続いていくわけではない。ままならない恋愛、という意味では、いずれも共通したものを本書に収められた短編はもっているのだ。

「ファーストキスはレモンの味」という言葉が、文字どおりの意味を指し示しているわけではない、という事実を知った場合。

 言うまでもないことだが、ファーストキスはレモンの味なんかしない。そこにあるのは、恋愛にかんして未熟だったがゆえに破局してしまった苦い経験――恋愛の甘酸っぱさを言い表したものである。恋をすることは、けっして楽しいことばかりではない。だが、おそらく誰もが自分のために生きているなかで、真に自分以外のために何かをしてあげたい、という心が交じり合う恋愛感情は、あるいは人間がもっとも人間らしく生きていける瞬間なのではないかと思わせるものが、本書のなかにはたしかにある。きっと著者にとって、そして本書の登場人物にとって、恋愛は甘酸っぱいものではなく、滋養豊富で風味絶佳な森永ミルクキャラメルのように、ひたすら甘くて、生きる糧となって体に染み渡っていくものなのだろう。(2006.02.12)

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