【河出書房新社】
『やがてヒトに与えられた時が満ちて……』

池澤夏樹著 

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 無知は罪だという言葉がある。これはたとえば、自身の言動に対する責任という意味で使われることが多いのだが、たしかに「知らなかったから」という理由だけで、犯した罪が帳消しにされるわけではないという意味において、このうえない真理を物語っている。一度やってしまったことは、けっして取り消すことはできない。だからこそ、何か行動を起こすときにはそれなりに注意をはらうべきであるのだが、知識というものはたしかにその手助けになってくれるものだと言える。

 私たちが無知であるという理由で間違いを犯してしまうというのであれば、習得する知識は多ければ多いほどいい、ということになる。だが、「無知は罪」という言葉が、無知な人間を罪人として貶めるためのものでないのと同様に、多くの知識を学ぶことが、かならずしもその人をより良い方向に導くというわけでもない。得ることのできた知識を広大な海に浮かぶ島に例えた人がいるが、知識を得て島の領域が大きくなればなるほど、知識の外に広がる海に接する海岸線もまた広がっていく。知識を得ることは、同時により多くの疑問や謎と接する、ということでもある。知らなければどうということもなかったことが、知ってしまったがゆえに自身の行動を抑制してしまうことだってある。さらに言うなら、知ったところで個人の力ではどうにもにならないことのほうが、世の中には多いというのもまたひとつの事実なのだ。

 本書『やがてヒトに与えられた時が満ちて……』に登場するザンジバルという一人称の語り手は、太り気味解消のための速歩行のコースとして植物域へと足をのばしたときに、何か奇妙な実験をおこなっている女性と出会うことになる。彼女はかつて人類の生活に重大な影響をおよぼしていたとされる「太陽」というものに興味をいだき、その一日の動きと、その動きによって生じる人の影の形の推移について、独立型の古い機械をもちいて計算し、その結果を視覚的なイメージに変換しようと試みているらしい。だが彼女の行為は、このラグランジェ植民都市のさだめる憲法ファイルで禁止されている、追憶主義にひっかかるのではないか。

 過去を振り返るべきではない。グレート・ハザードと呼ばれる大きな災厄のために人が生存できなくなった地球を捨て、まだ子孫を残す力をもつ一定数の人類が移住することで誕生した人工衛星都市ラグランジェ――数少なくなった人類をこれ以上減らすことだけは避けなければならないという方針のもと、CPUネットワークによって徹底した現状維持をつづけているこの小さな世界を舞台とした本書は、まるで金魚鉢のなかで飼われている金魚のようなイメージを読者に与える。けっして住みにくい世界ではない。安全で、食べ物に不足することはなく、また働いて賃金を稼ぐ必要すらなくなったこの世界の人々は、しかしかつて地球上にあたり前のようにあったあらゆるものに接する機会を永遠に失われた人たちでもある。

 この世界は完成されていて、改善の余地はない。この世界は有限であって、拡張の余地はない。この二つの原理を前提にしないかぎり、この植民都市は成立しないし、維持もできない。――(中略)――私にわからないのは、進歩と啓蒙という(思えば同じことだが)人間にとって基本的な二つの原理を君たちがかくも軽やかに忘れていられるかということだ。

 理想郷という概念がある。誰も傷つくことなく、飢えることもない満ち足りた平和な世界――ラグランジェ植民都市は、そういう意味ではもっとも理想郷に近い世界を実現しているといえるのだが、にもかかわらず私たちがその世界にどうしようもない違和感を覚えずにいられないのは、そこがこのうえなく「閉じた」世界であることを知っているからだ。語り手を含めた植民都市の住人たちは、そもそもこの世界の外に何があるのかを知らないし、また知ろうともしない。そんなことをしなくとも毎日は平安で、何の苦労もなく生きていける。それがCPUネットワークによる情報統制の結果なのか、それとも人間という種の終焉ゆえのものであるのかは、本書のなかでははっきりしていない。だが、ただ「生きる」ということ以上のことを巧妙に抑制された、このうえなく「無知」な人たちを前にして、私たち読者が思うのは、そこにどんな未来がありえるのか、という諦念にも似た思いである。

 帰るべき場所も、進むべき道も閉ざされた世界のなかでしか生きられない人たちにとって、自身が閉ざされた存在であることを想像するのは難しい。金魚鉢の中の金魚が、そのなかにいるかぎり金魚鉢というひとつの「世界」を認識するのが難しいのと同じことで、そのためにはその事実を事実として認識するだけの知識を必要とする。本書の場合、それはかつて人間が住んでいた地球の知識に相当する。太陽の光、風のそよぎ、空の青さ、そしてそこからかつての人々が感じたものや、そこから得ていたさまざまな恵み――ザンジバルは次第に、このラグランジェ植民都市の成り立ちについて疑問をもつようになる。はたして、この人工都市はどんな目的をもって運営されているのか、そして人類の行く末に、どんな希望があるのか。ゆるやかに進んでいく黄昏の世界はこのうえなく静かで、どこか寂しい。そして本書のラストを知った読者は、きっと考えることだろう。それでもなお、「無知は罪」なのか、と。

 本書は全部で五つの章にわかれているが、章を隔てた語り手が本当に同一人物なのかわからなくなってくるほど、そこには個性というべきものがない。だが、そのことが本書をつまらなくしているわけでもない。人間としての個性を越えた部分で動いていく何かに導かれるようにして、語り手は金魚鉢が金魚鉢たることを認識する。それは何と不思議で、そして何と寂しいことだろうか。人類の静かな終末の形を示した本書は、それゆえに読み手に何とも言いようのない余韻を残す作品にもなっている。(2007.03.25)

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