【新潮社】
『梟の城』

司馬遼太郎著 
第42回直木賞受賞作 



 現在、日本人の平均寿命は八十歳を超えていると言われている。人生八十年――この年月を長いと感じるか、短いと感じるかは人によってそれぞれ違ってくるであろうが、この世に生を受けたその瞬間から、いつか必ず訪れる死へ向かって突き進んでいくことを自覚しているのが人間という種の業であるとするなら、せめてその一生をより有意義に過ごしたい、しっかりとした自分自身の考えをもって行動し、けっして後悔しないような生き方をしたい、と考えるのは、人間であればむしろ当然の心の動きだと言うことができるだろう。

 その昔、この国には忍者と呼ばれる職業集団がいた。一人の領主に対して忠義を貫く武士とは異なり、あくまで自分の習熟した職能にのみ自己を帰依し、自らに厳しい掟と想像を絶する鍛錬を課した忍者は、常に時代の変わり目において、間諜、諜略のために暗躍し、ときには警戒厳重な城や、戦場における敵の本陣へ忍びの技をもちいて潜り込み、音もなく重要人物を暗殺することさえおこなってきた。彼らはけっして歴史の表舞台に姿をあらわすことのない、まさに「忍ぶ者」である。本書『梟の城』では、同じ伊賀忍者でありながら、まったく対照的な生き方を目指した、ふたりの忍者が登場する。

 時は天生――伊賀ノ乱で事実上、伊賀忍者一族を壊滅させた風雲児、織田信長も今はなく、世は豊臣秀吉による天下統一によって、しばしの安寧の時を迎えていた。信長の軍勢によって父母と妹を虐殺された伊賀忍者、葛籠重蔵もまた、討つべき仇を見失い、戦乱の収束とともに無用のものとなりつつある忍者としての職を求めることもなく、なかば隠者のような生活をつづけていた。そんな彼のもとに、「太閤秀吉の暗殺」という、かつてないほど大きな依頼が舞い込んできた。聞けば、先にその任を受けて京に向かった伊賀忍者の風間五平から、すでに二年半ものあいだ、音沙汰がないという。伊賀の忍者として生をまっとうすることを何より望んでいた重蔵は、与えられた任を貫徹させるべく、再び忍者として、五平の行方を追って京へ赴くことになる。しかし、そこで重蔵が見たものは、伊賀を売り、武士として現世の富と栄誉を求める生き方を選んだ風間五平の姿であった……。

 忍者もの、という言葉を聞いて、私がまず思い浮かべるのは、マンガ家の横山光輝が描いた『伊賀の影丸』のような、あるいは山田風太郎の書いた『甲賀忍法帖』のような、怪しげな忍術をもちいて忍者同士がその技を競い合い、壮絶な戦いを演じる、というシチュエーションだったりするのだが、司馬遼太郎という作家が描き出す忍者たちは、上述の作品に出てくるそれのように、派手な技や奇抜な策略をもちいたりすることはない。もちろん、その超人的な体術と技術で炎を起こし、水の上を走り、変わり身の術を使って相手の目をあざむきもするし、忍者同士の戦いも何度か出てくる。謎のくノ一だってちゃんと登場する。だが、その姿や活動はいたって地味な内容のものが多い。あくまで「忍ぶ者」として、闇から闇へと渡り歩き、昼間はけっして目立たない農民や商人といった姿に身をやつし、民衆のなかに溶け込んでたくみに流言をとばし、天下をひそかに揺るがすという、歴史の影の部分として、忍者というものをとらえようとしているのだ。そして、長年の厳しい修行の果てに、わずかばかりの報酬で危険な任務に追いやられ、けっして一個の人間として扱われることもなく、いつかはどこかの地で冷たい骸を風雨にさらすことになる忍者の運命を振りかえったとき、「自分は何のために生きるのか?」という、あまりにも素朴な疑問へと最終的には帰着することになる。

 忍者の生涯は空洞と同じようなもの――流水のごとく、けっして心を一所にとどめることなく、すべての人間に平等に備わっている快楽のすべてを絶って自らを滅するという忍者の生き方は、場合によっては仙人にも似たものであると言うことができる。そんな忍者の精神性をとらえ、その生きざまを描くことに成功した著者の力量には感服の思いであるが、忍者としての技量がいかに高かろうと、また幼少の頃より木石のごとくあれと訓練されていたとしても――いや、それだからこそなおのこと、著者は忍者もまたひとりの人間であり、おのれの生き様を思い悩む存在であることをけっして忘れない。そして、「どのように生きるべきか」という問いは、一方で「どのように死ぬべきか」という問いにもつながっているのである。

 忍者であることを捨て、かつての仲間を売り渡すことになろうとも、現世における地位と名誉、そして何より普通の男として女を恋し、妻を娶り、家庭を築いていくことを求めた風間五平。忍者としての孤高、その高潔さにとり憑かれ、あくまで人であることを超えたところにある真の孤高に殉じることを望んだ葛籠重蔵――生きることと死ぬことと、ふたりの目指した道は異なっていたが、その本質にあったものは、同じだったのではないだろうか。忍びを捨てながら、出世のために忍びの技を使い、一方で忍びであることを望みながら、人間としての自分の心に戸惑いを感じずにはいられないという矛盾に気がついたとき、生まれては死んでいく人間も、栄えては滅んでいく権勢も、けっきょくのところ、その環のなかに閉じ込められたものであることを、あらためて認識することになる。

 五平の許婚であり、伊賀のくノ一でもある木さるは、次第に五平のいいようにされていく自分を感じながらも、そこから逃れることのできないという連鎖のなかで「くりかえしじゃ」と心で呟く。

 人間のもっとも深部のかなしみは、この一事が解ったときからはじまるのかもしれなかった。欲望が誕生し、燃焼し、そして死滅する連鎖を、生涯のうちに何度くりかえして人は死ぬのか、と木さるは思う。

 はたして、重蔵の秀吉暗殺は成功するのか? そんな重蔵を捕らえて出世の糸口にしようともくろむ五平はどう動くのか? そして、秀吉暗殺という、ある種の茶番とも言うべき任を通して、ふたりは何を考え、忍者という自分の性に、どのような決着をつけるのか――エンターテインメント的な要素ばかりでなく、その奥に人としての生き様を模索する忍者の心を巧みに描いた本書の意外な結末を、ぜひとも確かめてもらいたい。(2000.06.21)

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