【早川書房】
『不動カリンは一切動ぜず』

森田季節著 

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 人の心というものについて、ふと考える。たとえば、私が本を読んで、そこからなんらかの感情や思いといったものを読み取ることができる、いや、もっと単純に「心震える」体験をしたりするのは、私のなかに私という「心」があって、その「心」が本のなかに書かれたものに対して反応をしめした、というふうに一応は解釈することができる。そしてこの心の動きは、それが他ならぬ私の「心」だからこその反応であって、他の人が同じ本を読んだとしても、私と同じように心を動かされるわけではない。

 自分が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であるということの論拠として、人は心とか魂とかいった言葉をしばしば用いるが、この心や魂といったものは、目に見えたり触ったりできるわけではない、きわめて抽象的な概念にすぎない。別の言い方をするなら、自分の「心」がどのような形をしているかを知るには、自分以外の何かに対して働きかけ、その結果として自分が何を感じ、何を思ったのかという経験を積み重ねていく以外にない、ということでもある。それでなくとも、人はそもそも肉体という殻に閉じ込められた存在だ。そしてこの肉体という物は、きわめて生物学的な本能によって支配されている。特定の異性に対して激しい恋愛感情をいだいたとして、それがはたして自分の遺伝子を後世に残したいという肉体的な欲求によるものなのか、ほかならぬ自分の心が発している思いによるものなのか、いったい誰に判断できるというのだろう。

 心という、きわめて曖昧模糊とした、より精神的なものを、どのようにして自分の構成物としてとらえていくことができるのか――本書『不動カリンは一切動ぜず』の世界観に触れたとき、私がまず思ったのはそういったことだった。というのも、今から数百年後の未来を舞台とした本書を大きく特徴づける要素のひとつとして、未知のウイルスによる性行為の消滅というものがあるからだ。

 自然界にいるあいだは無害だが、一度人間の体に入り込んだものが他人の体に入ったが最後、宿主の体を無理やり作り変えようとして殺してしまうという特性をもつウイルスが世界に蔓延した本書では、性行為はもちろん、出産という行為も過去の遺物としてほぼ廃れてしまい、代わりに国の管理のもと、すべての子どもたちが人工授精によって誕生し、役所への申請によって授けられるという流れが常識となっている。当然のことながら結婚という概念も崩壊し、また家族というものが血縁によって結びつけられるという考えも、本書の世界には存在しない。

 じっさい、本書の主役たる不動火輪の家はふたりの母親とひとりの父親、そして本人という家族構成で、両親は結婚しているというわけではなく、また家族間での遺伝子的なつながりもない。それでもなお、登場人物たちがこの集団を「家族」としてふつうに認識しているということは、「家族」という単位の役割が私たちの知るそれとは異なったものとなっているか、その重要性が薄れていることを意味する。血のつながりによる家族という結びつきが、自己の形成に大きな影響をおよぼしているという常識のなかで生きる私たちからすれば、それはかなり異質な世界観ではあるが、逆にいえば、血縁という強固な束縛から、個人がより「個」としての自由を謳歌できる時代になっている、ということでもある。

 だが、「個」は容易に「孤」へと変わる。性行為による肉体的な結びつきも、家族という血縁的な結びつきも崩壊し、人と人との関係性がますます希薄なものになりかねない世界なのだが、本書を読むかぎり、人々はそうした環境をごくありふれた常識として受け入れて生きている。そうした状況を支えているのか、本書のもうひとつの特徴である「埋め込みノードによる思念伝達」という要素だ。

 人々は言葉によるコミュニケーションとはべつに、掌に埋め込まれたノードによって、自分が意識しているものを画像や音声といった情報にして相手に伝達するというコミュニケーション手段を使い分けている。「思念伝達」と呼ばれるこの方法は、あくまでお互いの掌を合わせてノードを反応させることが前提にあるため、一対多のコミュニケーションでは用いられないのだが、それでも言葉のみによるコミュニケーションに比べて格段に多くの情報を伝達できるし、言葉では表現しにくい意識や感情もイメージとして伝えられるという利点があるのは容易に想像できる。いっけんすると、上述のウイルスの件とは何の関係もない要素のように思えるのだが、肉体や血縁といったものに頼りがちだった人と人との強い結びつきが意味を失った本書の世界において、この「思念伝達」が、そうした結びつきの代わりとなっていると考えれば、この設定もまた本書を評するにおいて重要な意味を帯びてくる。それは、不動火輪というキャラクターの行動原理にかんするものである。

 不動火輪は動かない。名前のとおり、動かない。

 周囲からそんなふうに言われている中学生の火輪は、生まれつき気が弱く、誰かの前で自分を素直に表現することが極端に苦手な性格の持ち主だ。そのせいで友だちも少ないのだが、クラスメイトの滝口兎譚だけは、なぜか積極的に彼女に接し、いっしょに行動することをうながしてくれる。ふだん動けない火輪が動くのは、そんな兎譚のアプローチがあってのことという状況がある。授業で「過去の事件の顛末を調べる」という自由課題が出されたときも、兎譚は火輪をグループに誘い、調べる事件についても提案し、さらにはその現地調査にも火輪を連れ出すという積極性を見せるのだが、ふたりが調べていた事件――三年前の遠足で起きたバス転落事故にかかわる思念記録がもととなって、大きな陰謀の渦中に投げ込まれてしまい、その過程で兎譚の行方がわからなくなるという事態に陥ってしまう。

 ごくふつうに考えたとき、こうしたシチュエーションにおいて、ごくふつうの中学生にできることはほとんどない。ましてや火輪は、兎譚がいるからこそ「動ける」消極的な女の子であり、また兎譚の「姉」たる虎譚は警察省勤務の警官で、さらにいえば、兎譚の行方を追う過程で暗殺者に直接命を狙われるという危険にもさらされている。自分たちが自由課題の材料として選んだ事件は、思った以上に大きな陰謀とつながっている――犯罪がらみのことであれば、専門家にまかせるのが一番だし、素人の女の子が動いたところで、何がどうなるものでもないはずなのだ。

 だが、不動火輪は「動く」ことを選択した。それも、きわめてユニークな方法で「動く」ための力を得るという行動を示した。そして、その積極性の原点となっているのは、愛しているという兎譚の強い思念の告白に、自分なりに応えたいという思いがある。

 愛する人や仲間のために、身の危険を顧みずに行動するというのは、物語においてはもはや使い古された王道ともいうべきシチュエーションのひとつである。だが、本書のきわめて特殊な世界観において、誰かを好きになるという感情は、たんなる言葉や性欲といったものだけでは成立しない、より精神的な意味合いを帯びている。むしろ本書の世界設定はただひとつ、このシチュエーションの再評価のためにこそ築き上げられたものではないかとさえ思えるほど、火輪の「不動」から「動」への流れはダイナミックであり、また熱いものが感じられる。

 人間以外の思念の存在や日本古来の神々の概念、仏教の教えといった要素と、SFとしての要素が絡み合い、いつしか人の心とは何なのかという問いかけへといたる本書で、はたして「不動」の火輪はどのようにして物語を回していくことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2012.11.08)

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