【岩波書店】
『あのころはフリードリヒがいた』

ハンス・ペーター・リヒター著/上田真而子訳 



 私が「忖度(そんたく)」という、ふだん聞き慣れない言葉を知ったのは、ダイヤモンド社が刊行しているフリーペーパー「経」で森達也が連載している、「リアル共同幻想論」という小論のなかである。その論のなかでは、二〇〇一年一月三〇日にNHKで放送された「問われる従軍慰安婦」という番組の内容が、当初の説明とは大きく食い違っているとして、番組内で被写体となった主催者団体のひとつがNHKを提訴した、いわゆる「NHK番組改編問題」に触れている回があり、番組改編が政治介入だったのではないか、という点について、二審が「NHK幹部が二人の政治家の意図を忖度した」と認定したと書かれており、そこから「過剰な忖度」とはどういうものなのか、ということへと論が展開している。

 忖度とは、他人の心を推し量ることだという。人の心の痛みを自分のこととして感じとることができるのは、人間がもつ想像力の賜物であり、人と人との関係においてなくてはならないものである。だが、それが「過剰」になるとは、どういうことなのか。NHK番組改編問題の例では、ある政治家が番組の内容に何らかの不満があるらしい、とNHK幹部が忖度し、その結果現場に番組改編を指示した、ということになる。ここで重要なのは、その二人の政治家が、じっさいの言動としてNHK側に何を行なったのかは不明であるにもかかわらず、「過剰な忖度」だけがひとり歩きして、組織が大きな間違いを犯すことになる、というプロセスであり、またそこには責任問題がこのうえなく曖昧なものとなってしまう、という点である。

 私が本書『あのころはフリードリヒがいた』を読み終えて、まず頭に浮かんできたのは、上述の「過剰な忖度」という言葉だった。本書の舞台となっているのは、一九三〇年代から四〇年代にかけてのドイツ、語り手である「ぼく」の友人として登場する、同じアパートのすぐ上の階に住んでいるシュナイダー一家の子ども、フリードリヒのたどることになった運命を書きつづったものであるが、時代はナチスの台頭からユダヤ人排斥運動の激化へと大きく変動していき、それとともにシュナイダー一家の置かれる状況はより厳しいものとなっていく。フリードリヒたち一家は、ユダヤ人の家系だったのだ。やがてドイツは第二次世界大戦に突入するが、反ユダヤの流れは収まるどころか、ますます強い排斥運動となって一家を翻弄し、追いつめていく。そのとき、語り手の一家は……。

 同じ年に子どもが生まれ、同じアパートに住んでいたということもあって、語り手の家族とフリードリヒの家族は親しい交流をもつようになった。物語当初において、語り手の父親は失業中であり、経済的にも困窮していたのに対し、公務員の父親をもつシュナイダー一家がそれなりに裕福な生活をおくっていた、という状況が、けっして説明的な文章ではなく、あくまで「ぼく」の視点から――たとえば、フリードリヒとその母親が庭で雪遊びをしているのに、語り手の母親は内職が終わらなくて外に出られないという状況や、入学式のときにシュナイダー一家が語り手の家族をつれて「お祭広場」に行き、いろいろサービスしてくれたりといった描写でさりげなく書かれている。この裏には、当時ドイツがこうむっていたインフレの後遺症や、ユダヤ人の裕福さといった経済的格差があるのだが、そうした背景を知らなくても、物語としては問題なく読み進めることができるようになっている。

 第二次世界大戦下のドイツといえば、私たちはどうしてもナチスという言葉を思い出さずにはいられないのだが、児童書である本書において、そうした複雑な経緯もまた書かれてはいない。そもそも、物語が始まった頃は、シュナイダー一家がユダヤ人であるという意識すら、語り手のなかには浮かんでこなかったのだ。だが、フリードリヒたちの一家がユダヤ人である、という事実が、少しずつ妙な重み――それも、どこか嫌な重みをともなって意識させられていくようになる経緯が非常にリアルに描かれている。そこから見出せるのは、そのとき起きていたユダヤ人排斥という過剰な反応の一部が、まさに市民レベルのものとして浸透してしまっているという事実である。

 歴史的な視点から見たとき、ナチスの行なったユダヤ人排斥運動の流れは、どう考えても異常なものとして私たちの目には映る。なぜユダヤ人というだけで捕らえられ、強制収容所に送られなければならなかったのか――そうした政策を、さまざまな大義名分とともに、ナチスが実行していたというのは事実だ。だが、たとえ政治がそうした流れを突き進んでいったとしても、市民たちがそれをどうとらえるのかは、それぞれの個人にゆだねられるはずのものだとも言える。そしてそんなふうに考えたときに、私の頭に浮かんでくるのが、「過剰な忖度」という言葉である。

 物語が進むにつれて、フリードリヒたち一家はユダヤ人であるという理由でさまざまな理不尽な出来事に遭遇することになる。アパートからの立ち退き、突然の解雇、やってもいない犯罪の濡れ衣を着せられそうになったり、暴徒となったドイツ人たちに家を荒らされたり――こうした過剰な排斥の流れは、はたしてナチスからの指示や命令があったのだろうか。そうした流れを積極的に推し進めていったのは、ナチスの党員だけだったのか、あるいはそうでないドイツ人たちもいたのかどうか。少なくとも、語り手の父親は党に入党はしたし、語り手もまたナチスの色濃い少年団に入ってはいるが、ユダヤ人への不当な扱いには手を染めることはなかったことを考えると、彼らはけっきょくのところ、ナチスの意図を過剰に推し量ることによって、自らの暴力を正当化していたのではないか、と思わずにはいられないのだ。本書の最後は、まさに「過剰な忖度」の象徴とも言うべき出来事だったと断言できる。そして、だからこそ本書の一連の出来事は、私たち読者のひとりひとりの心に深く食い込んでくる力をもっている。

 「過剰な忖度」は、けっして特別な人たちだけのものではない。誰の心にも起こりえることなのだ、ということを、本書は何よりも雄弁に物語っている。そして、そこには責任者たる者は存在しない。だが、ユダヤ人たちが排斥され、大量殺戮に巻き込まれたという事実だけは残る。はたして私たちは、自分も知らないうちに「過剰な忖度」の雰囲気に飲み込まれていないだろうか。自身の言動は、はたしてどこから与えられたもので、誰の責任をもってなされているものなのか――本書はそうしたことを、読者ひとりひとりに語りかけているのだ。(2008.12.17)

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