【新潮社】
『きつねのはなし』

森見登美彦著 

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 稲荷神社の総本堂である京都の伏見稲荷大社には、学生時代に一度だけ訪れたことがあるが、その参道につづく千本鳥居は、訪れたときがちょうど夕暮れ近かったこともあって、まるで別世界への通路のように、どこか非現実的な雰囲気が漂っていたことをよく覚えている。歩いても歩いても続いていく赤い鳥居のトンネル――たしかに、ひとつやふたつであればさほど珍しくもない神社のシンボルが、あれほどの数つらなっている様子は、どこか尋常でないものを感じさせるものであるのだが、それよりも私を不安にさせるのは、その鳥居のトンネルをくぐっていくことで、自分がいつのまにか日常から非日常へと入り込んでしまったのではないか、と思わずにはいられない雰囲気にこそある。そういう意味では、俗世間とは隔絶された神聖な場所として境内を位置づける神社側の意向は、このうえなく成功していると言える。

 以前紹介したエマニュエル・カレールの『口ひげを剃る男』は、それまであたり前であった日常が突如非日常へと裏返ってしまった男の顛末を書いた作品であるが、そこには男がそれまでのばしてきた口ひげを、戯れに剃ってみるというはっきりとしたきっかけがあった。本書『きつねのはなし』は、表題作をふくむ四つの作品を収めた短編集であるが、読み進めていくにつれて、私たちがそこにあると信じていた日常が知らず知らずのうちに曖昧な、かぎりなくあやふやなものへと変貌していく様子を体験することができる。たしかだったものが、じつはこのうえなく不安定なものでしかなかったと気づいたときの手ごたえのなさ――それはまるで、千本鳥居をえんえんとくぐり抜け続けるかのような、そんな日常のなかに不意に生じたエアポケットを表現することが、本書の醍醐味なのだ。

 森には狐が住んでいて、よく人を化かした。――(中略)――美しい女になったり、どこまでも延々と終わらない不思議な行列になったり、ほろ酔い気分で歩いていた祖父の土産ものを風呂敷だけ残してそっくり盗んだりした。(『きつねのはなし』より)

 本書に収められた短編は、それぞれ独立した物語である。表題作の『きつねのはなし』は、「芳蓮堂」という古道具屋でアルバイトをすることになった学生の体験記であり、『果実の中の龍』は、自身の体験や想い出話を物語風に語って聞かせるあるサークルの先輩にまつわる話である。『魔』では、ある高校生の家庭教師をすることになった学生の身に起こった顛末が書かれ、『水神』では、祖父の通夜に集まった親戚たちが、祖父やさらにその先祖たちの四方山話をしながら、話はその家に伝えられている家宝のことへと移っていく、という按配である。こんなふうにあらすじを書いてしまうと、それこそ味気ない内容になってしまうのだが、じつはこれらの短編集、いずれも京都を舞台としているということ以外は、直接的なつながりのない話ではあるのだが、本当に何の関連性もないのかと言われると、断言することのできない部分をいくつも残している。

 たとえば『きつねのはなし』と『果実の中の龍』には、いずれも芳蓮堂が登場し、さらにそこの主人がナツメという女性であることも共通しているのだが、ではこのふたつの短編が時間的にどのようなつながりをもっているのか、という点について、断定できる情報がどこにも存在しない。もちろん、ある程度匂わせる描写はあるものの、それ以上先に進むための決定的なものが欠けている状態なのだ。そしてそれは芳蓮堂という屋号だけでなく、そこに扱っているさまざまな古道具についても同じことが言える。

 『果実の中の龍』のなかで、先輩が語ったあるつくり話が、次の『魔』ではメインのストーリーとして進行したりするようなつながりもある以上、同じ「芳蓮堂」という名であっても、それが短編を越えてまったく共通のものであるのかどうか、判断するすべを読者は持ちえない。そういう意味では、本書は短編はいずれもこの上ないつながりをもっているとも言えるし、まさにそうした手ごたえのないつながりを読者に意識させることが、本書に仕組まれた最大のテーマでもある。なぜなら、本書はそのタイトルにもあるように「狐につままれたような話」を読者にも追体験させることが目的であり、読者が短編間のつながりについて思考をめぐらせればめぐらせるほど、つかみどころのない大海をそのなかに意識して、呆然と立ち尽くすほかなくなってしまうからである。

「――この街には大勢の人が住んでいて、そのほとんどすべての人は赤の他人だけれども、彼らの間に、僕には想像もつかないような神秘的な糸がたくさん張り巡らされているに違いない。――(中略)――もしその糸を辿っていくことができるなら、この街の中枢にある、とても暗くて神秘的な場所へ通じているような気がするんだ」(『果実の中の龍』より)

 「この街」というのは、言うまでなく京都のことであり、そこに住んでいる「大勢の人」というのは、本書のなかに登場する人物でもある。そしてそれぞれの短編のなかで、具体的な時代背景がこのうえなく曖昧にされている以上、「大勢の人」のなかには過去の人物も含まれてくる。本書ではしばしば登場人物たちが、自分の過去を物語るシーンがあるが、とくに『水神』においては、物語の時間軸が過去と現代を何度も行ったり来たりすることで、時間的な枠さえもかぎりなく曖昧なものへと変貌していく。そしてある瞬間、読者はふと我に返るかのように自身の立ち位置をたしかめざるを得なくなる。そしてそのとき、自分がいつのまにかそれまで想像していたのとはまったく異なる世界のなかにいることに気づくことになる。それは、たしかに「暗くて神秘的な場所」ではあるが、しかしこのうえなく不安で、居心地の悪い場所でもあるのだ。

 著者の作品については、以前に『夜は短し歩けよ乙女』を読んだのだが、同じように現実の虚構の境目を曖昧にした独自の世界を描きながらも、『夜は短し歩けよ乙女』が高橋留美子のコメディ漫画のような世界を展開しているのに対して、本書の場合、むしろ怪奇的幻想世界を生み出そうとしているし、少なくともそのための仕掛けを周到に用意できるだけの技量を見せつけてもいる。むしろ本書こそが、著者の真骨頂と言えるのかもしれない。もし、狐に化かされるというレトロな、しかしどこか薄暗い世界を垣間見たいというのであれば、ぜひお勧めする。(2007.02.23)

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