【実業之日本社】
『空飛ぶタイヤ』

池井戸潤著 



 作家である平野啓一郎が書いた『小説の読み方』という本のなかで、彼はエンターテイメント系小説の面白さを語るにあたって、「逃亡」と「謎解き」のふたつの要素を挙げ、その条件を満たす作品として伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』を紹介している。

 「逃亡」という要素が意味するのは、主人公が常に危機的状況に陥っているということであり、このままでは自身の命すらあやうい、ということにでもなれば、否応なく事態は切迫したものとなる。いったい、この物語の主人公はどうなってしまうのか、という気持ちは、読者を話の先へとうながしていく原動力となりうるものであるが、かといって主人公がただ逃げ回るだけでいいというわけではない。今は逃げてばかりいるが、そこには一抹の希望が残されていなければならないし、でなければ主人公はあまりにも報われない。そこでもうひとつの要素である「謎解き」が生きてくる。この「謎解き」こそが、主人公に与えられた起死回生の一手であり、主人公の置かれた状況が絶望的なものであればあるほど、その「謎解き」による逆転は劇的なものとして読者の印象にも残る。

 言うなれば、上述の「逃亡」と「謎解き」という要素は、「絶望」と「希望」という言葉に置き換えることができるのだ。そしてその「絶望」が大きければ、それだけ残された「希望」もまた輝いてくることになる。たしかにエンターテイメント小説としては、これ以上に貴重な要素はないに違いない。そして、今回紹介する『空飛ぶタイヤ』もまた、基本的にはそうしたふたつの要素によって巧みに盛り上がっていくたぐいの作品だと言うことができる。

「――カーブでタイヤが外れたそうだ。そんなにタイヤってのは外れるものかな、沢田さんよ。お宅のタイヤは空でも飛ぶのか」

 個人経営の運送会社、赤松運送のトレーラーが人を轢いて死亡させた。正確には、走行中にタイヤが脱落し、そのタイヤが不幸にも歩道を歩いていた主婦に直撃したのだ。経営者の赤松徳郎の頭にまずよぎったのは、自社の整備不良という線だったが、点検項目は規定のそれより格段に厳しいもので、チェックの漏れがあったとは考えにくかった。警察が自社を家宅捜査したにもかかわらず、その後の動きがないという点も、それを裏づけていた。だが、トレーラーのディーラーであるホープ自動車の分析結果は、赤松運送の整備不良というものだった……。

 こうして物語は、ひとりの中小企業の経営者がいだいた、ほんのわずかな違和感から始まることになる。それは、あるいはただの違和感程度で終わったかもしれないことではあるが、今回の事故については、結果として人がひとり死んでしまっている。そしてホープ自動車は、三年前にリコール隠しを暴露され、市場での信用を失墜させるという過去をもつ会社でもあった。はたして、今回の事故の真相はどこにあるのか、もしかしたらホープ自動車の販売するトレーラーには、構造的な欠陥があるのではないか。

 本書の物語構造は、赤松運送が起こした事故の真相を追究するというものであり、基本的には「謎解き」という要素をもったミステリーとしての体裁をとってはいるが、それ以上に赤松運送vsホープ自動車という対決構造を強く前面に押し出すような展開を狙っている。いっぽうは月々の資金繰りにも神経をすり減らす思いをしなければならない弱小会社、いっぽうは財閥グループにつらなる一大企業であり、ブランド力も資金も圧倒的なものをもっている。ふつうに考えれば、赤松運送などが太刀打ちできる相手ではないのだが、弱いものが強いものを打ち負かすという展開は劇的であり、また胸のすくような思いがするのもたしかである。そしてこの作品は、その効果を最大限引き出すためにさまざまな工夫をこらしているところがある。

 赤松徳郎は父の会社を受け継いだ二代目であるが、経営者というよりは、零細に近い小さな会社の「大将」という肩書のほうがふさわしい気質の持ち主だ。そしてここでいう「大将」というのは、自分が一番偉いという認識にあぐらをかくような人物ではなく、むしろ社員あっての会社であるという認識のもと、経営をおこなうことができる人物を指す。というよりも、赤松運送のような何の後ろ盾もない会社の場合、唯一の武器として人脈、つまり人と人とのつながりと、そこから生じる信頼関係に拠るしかない、というのが正直なところなのかもしれないが、彼がそれを実践できる人物であることは、物語の当初、整備担当の若い社員の不手際を疑ったことに対し、素直に頭をさげるというエピソードひとつとっても見えてくる。

 そのいっぽうで、本書は赤松の視点だけでなく、ホープ自動車のカスタマー戦略課に勤務する沢田悠太や、同系列の銀行である東京ホープ銀行の井崎一亮の視点で物語が展開するパートを盛り込むことで、ホープ自動車の経営が大企業ゆえの傲慢で世間知らずなものであるという背景や、ホープ自動車の内部に「T会議」なる秘密会議が存在し、重篤な不具合情報を意図的に隠ぺいしているのではないか、という極秘情報を物語の早い段階から読者に提示していく。ようするに、事故の真相という点では、ホープ自動車が欠陥商品であることを知りながら、それをひた隠しにしてきたことが原因であることが、読者の共通認識となるよう話を進めているのである。

 ホープ自動車の分析結果にどうしても納得のいかない赤松たちは、自分たちで事故原因の調査をしてみようということになるのだが、肝心のトレーラーの部品はホープ自動車がもっており、しかもその返却を求めても相手はけっして首を縦に振らない。部品そのものは自分たちの所有物であるにもかかわらず、ホープ自動車の態度はあきらかに人としての誠意を欠くものだ。しかも状況は、時間の経過とともに赤松たちにとってますます不利なものとなっていく。取引先からは仕事を引きあげられ、銀行の融資はとれないばかりか、あからさまな貸しはがしを仕掛けてくる。こちらの誠意は世間には通じず、被害者からは高額賠償の訴訟を起こされるという、これでもかというほどの逆境のなか、赤松がまさに泥をすするような覚悟で事故の真相を突き止めようと奔走する様子は、読者としてはどうあっても彼らを応援せずにはいられなくなってしまうのだ。

 本書は不幸な結果を招いたタイヤ脱落事故を題材にした小説であるが、それ以上に会社という組織の物語であり、それは言いかえれば組織のなかで生きる人間たちのドラマでもある。そして、そんなふうに本書をとらえたとき、赤松運送とホープ自動車との対比はこのうえなくはっきり見えてくるし、その対比が最終的に企業としての明暗を分けることにもなる。繰り返しになるが、事故原因そのものについては、あるいは違和感程度で終わってしまったかもしれない要素である。にもかかわらず、赤松運送がその真相追及のために奮闘したのは、自身の経営する会社の危機を乗り越えるという意思もさることながら、赤松徳郎がまず社員の生活ということを第一に考えていたからであり、それ以上に今回の事故が死亡事故になったことがもっとも大きい。その行動理念の中心にあるのは、常に人なのだ。いっぽうのホープ自動車がどうかといえば、そこには人以上に派閥や財閥系であるというくだらないプライドばかりが優先されており、そもそもそこで働く社員はもちろん、顧客に対してさえ、自分と同じ人間という意識がないかのような扱いである。

 人が死ぬということの重み――その理不尽な死が、ひとつの家族を壊してしまうという不幸を、他人事としてではなく、自分のこととして想像できるかどうか、本書は読者ひとりひとりに問いかけている。そして本書を読み終えた私たちは、会社という組織で働くということの本質について、あらためて考えさせられることになるに違いない。(2009.11.07)

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