【岩波書店】
『果てしなき逃走』

ヨーゼフ・ロート著/平田達治訳 



 たとえば、「無職」という言葉はあっても「有職」という言葉はない。私たちがこの社会を生きるにあたって、しばしば個人情報を記する機会があるが、「名前」や「住所」といった項目のほかに、たいてい「職業」の欄があり、そこにとりたてて書くべきものがない場合に用いられるのが「無職」である。そもそも何らかの職業に就いている者は、その職業の種類を書き込むのがふつうであり、個人情報として知りたいのも、まさにそれに他ならない。この人は会社に勤めるサラリーマンなのか、その会社はどんな業種なのか、あるいは弁護士か、医者か、教師か――逆に言えば、およそ成人した者であれば、「専業主婦」といった例外はあるものの、かならず何らかの職業に就いているはずである、という前提が成り立っているということであり、そうした社会に私たちは生きているということでもある。

 自分の名前や住所、あるいは職業といった情報は、社会のなかでひとりの人間として生きていくために必要だとみなされているもののひとつだ。そして人は、なんらかの社会に属さずには生きていけない生き物でもある。そういう意味では、人はひとりでは生きていけないという言葉はこのうえなく正しい。人がほかの誰でもない、まぎれもない自分自身であるという個性は、社会という大勢の人間のなかに属し、自分と他者を区別するためにこそ必要なものなのだ。

 しかしいまはもうフランツ・トゥンダは名もなく、存在意義もなく、位もなく、肩書きもなく、金もなく、職業もなく、故郷を喪失し、法的権利を喪失した、一人の若者にすぎなかった。

 このないない尽くしの見本のような男、フランツ・トゥンダのことを書いた本書『果てしなき逃走』を評するにおいて、まずは彼が置かれた境遇を理解する必要がある。オーストリア=ハンガリー君主国の陸軍中尉だったトゥンダは、第一次世界大戦中にロシア軍の捕虜となり、イルクーツクの収容所に連れてこられたが、とあるポーランド人の助けを借りて脱獄に成功、しかし、戦時中に脱獄兵が国外に脱出することは困難であることから、そのポーランド人の姓を借り、西側の人間であることを隠してシベリアの地にとどまることを余儀なくされる。
 やがて戦争は終結し、トゥンダは敵兵の追跡を気にする必要がなくなるが、そのときには故郷であるオーストリア=ハンガリー君主国は崩壊し、帰る故郷は失われていた。だが、ウィーンには婚約者のイレーネがいて、彼の帰りを待っているはずである。となれば、トゥンダが目指すべき場所は、婚約者のいるウィーンであり、物語においても彼はウィーンに向けて旅立つことになるのだが、ここでひとつはっきりさせておくべきなのは、トゥンダとイレーネとの関係が、かならずしもお互いの愛によって支えられていたわけではないという点である。では何があったのかといえば、それはこの婚約がお互いにとって妥当なものであるという認識だ。

 ある人間の言動において、何が妥当であるかを判断するのは社会の定める法であるが、たとえ明文化されていなくとも、多くの人間が集まるがゆえに暗黙的に成り立ってしまうものがある。それは「常識」とか「慣例」とかいった言葉で表現されるものであるが、トゥンダとイレーネの婚約は、彼らが属していた国の常識として妥当――いわゆる「お似合いのカップル」だったということである。もちろん、時間があればふたりはお互いのことをより知ることができ、その結果としてお互いを一個の個性として愛する余地も生まれていたのかもしれない。だが、軍人として戦地に赴く機会の多いトゥンダにそれだけの時間はなく、またそうなる前にロシア軍の捕虜となってしまった。結果として、ふたりの関係を支えていたのは、その外見と、彼らが属していた身分だけだという認識が生じることになる。

 上述したように、彼の故郷であるオーストリア=ハンガリー君主国は崩壊し、それとともに彼の身分を支えていたものもすべて無くなってしまった。今は陸軍少尉でなく、また今後より高い位に就けるという見込みもない、ただの若者と化したトゥンダは、その時点でイレーネとの婚約そのものも意味のないものとなったという認識をもっている。ようするに、ウィーンに戻ることの意味は、もはや存在しないも同然なのだ。にもかかわらず、本書においてトゥンダの原動力としてしばしば登場するのは、婚約者イレーネのことである。そしてその点にこそ、本書の悲劇がある。

 故郷喪失者としての悲哀をテーマとした本書であるが、自分のいるべき場所という意味では、かならずしも故郷が重要というわけではない。人はともすれば環境に慣れていくものであるし、また新しい場所で家庭を築くことも可能だ。じっさい、本書のなかでトゥンダはいったんはウィーンを目指すものの、社会主義革命の機運が高まる東欧の赤軍に捕まったことを契機に、赤軍の兵士として、のちには革命家としての道を歩むことになる。だが、彼はけっして革命の内容に共感したわけではなく、赤軍のなかにいたナターシャという女性への愛が、彼を革命家へと駆り立てたのだと著者は書いている。

 男たちに混じって革命のために戦う闘士としてのナターシャは美しかった。だが彼女にとっての愛とは、革命のための義務のひとつでしかなく、逆にトゥンダが示す愛の形をブルジョア的だといって非難する。男の所有物としての女の価値を否定し、一個の人間としての自分自身でありたいと望むナターシャは、社会主義の象徴と言ってもいい立ち位置にある。いっぽうのトゥンダは、西欧的な愛の価値観を捨てきれずにいる。けっきょく彼はナターシャと結ばれることはなく、べつの女性と結婚し、また革命を成功させた者のひとりとしてそれ相応の地位も手にするが、かつて婚約者だったイレーネの幻想に誘われるかのように、それまで築いてきたものすべてを捨てて、西欧社会への復帰を決意する。自身の本来の名であるフランツ・トゥンダを呼び戻して。

 ところがわが友はいい加減な人物だった。エゴイストだと陰口をたたくことすらできないくらいいい加減な人物だった。――(中略)――強いて彼の特徴を何か挙げる必要があるとすれば、わたしはこう言うだろう。彼の一番はっきりしている性格は自由への願望であったと。

 トゥンダにとって西欧の象徴でもあったイレーネとの婚約は、彼の故郷と同様、崩壊した価値観であり、そういう意味で、彼がいまさら本来の名前に戻って西欧世界に復帰したところで、彼の居場所が用意されているわけでないことは、この物語のなかでは予見されたことでもある。それならば、いっそ割り切って過去の自分を捨てて生きるという選択肢もできたはずだ。だが、そんなふうにすべてを割り切って生きていけるほど人間は合理的な生き物ではない。そしてもっともやっかいなことに、トゥンダには明確な欲望というものが存在しない。いや、じつはあったのかもしれないが、少なくとも本書のなかにはっきりとした形であらわれてくるわけではない。自分が生まれ育った故郷の残滓を頼りに、存在しないあやふやな理想郷への願望を振り切れずにいる放浪者――それは同時に、彼がこの世において身を落ち着ける場所がどこにもないことを意味する。

 最初、本書の『果てしない逃走』というタイトルについて、いったい誰が、何から逃げているのだろうか、という疑念があった。だが、こうしてトゥンダの置かれた境遇について考察を重ねるうちに、それは「故郷」そのものからの逃走であることが見えてきた。それは、今はもう喪失したものであり、にもかかわらず、彼という人間の根幹を成しているがゆえに、全否定できないものでもある。だからこそ、「果てしなき」という形容に意味が生まれてくる。逃げても逃げても追いかけてくる故郷への願望――それは当然のことながら、トゥンダの過去の栄光であり、また婚約者が待っているはずだという幻想も含まれている。ロシアからドイツ、そしてフランスの首都パリへの長き旅路の果てに、はたしてトゥンダが何を見出すことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2011.01.16)

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