【早川書房】
『フリント船長がまだいい人だったころ』

ニック・ダイベック著/田中文訳 



 私はときどき、自分という人間が油断のならない、完全に信用することのできない人物であるという認識に囚われることがある。他ならぬ自分自身のことであるにもかかわらず、その自分を信用できない、というのもおかしな話ではあるのだが、たとえば、どうしようもなく愚かしい言動をしでかしてしまった自身の過去を振り返らざるを得ないようなときに、当時の自分がなぜあんなことをしてしまったのか、どうしても理解に苦しむという体験は、はたして私だけだろうか。

 むろん、何らかの言葉をあてはめて、そのときの自身の気持ちを説明することは不可能ではないだろう。だが、そうして言葉にしたものでさえ、他ならぬ自分を信頼できない自分の言葉である以上、どこまで真意を含んだものであるのか、わかったものではない。もしかしたらその解説は、もともとあった私の真意を汲みとったうえで、それを説明するために言葉を用いたというのではなく、言葉を使って説明したがゆえに、そうした真意がはじめて生じたというだけであって、本当にそのときそんなふうに思っていたのかは、依然としてわからないままなのかもしれないのだ。

 言葉にして説明することが難しい――ありきたりな言葉にすることで、何か大事なものが決定的に抜け落ちてしまうのではないか、という思いは、誰もが多かれ少なかれ持ちあわせているものであるが、そうした言葉にならない思いというものを、他ならぬ言葉で表現するものが小説であるとするならば、本書『フリント船長がまだいい人だったころ』に書かれている物語は、まさにそうした思いを封じ込めた作品だと言うことができる。

 僕らはみんな僕らなりの理由を持っているけれども、それ自体は悲劇ではないということだった。ほんとうの悲劇とは、ごくまれな例外を除いて、僕らがみんな、なぜそうするのかはっきりと理解しないままあらゆることを――いいことも悪いことも――してしまうということだった。

 ワシントン州の小さな半島に位置する港町、ロイヤルティ・アイランドを舞台に、今は別の土地にいる一人称の語り手カル・ボーリングズが、十四歳のときにその町で起こったある事件のことを思い出すという形で展開する本書であるが、その事件が「事件」であること――つまり、刑事事件として扱われるべきものであることを知っているのは、カルを含む数人だけであり、かつその秘密は、これからも秘密でありつづけなければならないたぐいのものである。本書は言うなれば、語り手がそうした重い秘密を抱え込むに到った原因を語るための物語ということになるのだが、そこには彼の生まれ故郷であるロイヤルティ・アイランドの、漁港としての背景とその歴史が深く関係している。

 ロイヤルティ・アイランドは漁業の町だ。男たちの大半は漁師で、一年の半分をアラスカでの漁に費やし、おもにタラバガニやズワイガニなどを獲って生計を立てているが、他の漁業の町が衰退したり観光地への転換を余儀なくされるなか、百年近くも変わらず漁師の町として栄えてきたのは、そうした漁船を統べる会社<ロイヤルティ・フィッシング>の社長を代々勤めるゴーント一族の手腕によるところが大きかった。カルの父親ヘンリーもまたその会社の社員にしてカニ漁船の船長であり、当時のカルも大きくなったら漁師になってアラスカに向かうのだと思い込んでいた。それは、ロイヤルティ・アイランドで生まれた男の子の大半がなかば当然のことのように思っていたことでもある。
 だが、漁師たちに崇拝されていたジョン・ゴーントの死は、町の運命を大きく左右することになる。彼の息子であり、ジョンの遺産のすべてを相続したリチャードは、もともと父の仕事に否定的で、他の漁師からもあまり好ましく思われていないところがあったのだが、彼は父から受け継いだ事業のすべてを外国に売り渡すことを宣言し、その対立を決定的なものとしてしまったのだ。

 こんなふうに本書のあらすじを書いていくと、まるでリチャードが悪人として扱われているように見えてくるが、それはある意味では正しく、また別の意味では正しくない。そしてこうした微妙な言い回しをしなければならない背景には、語り手であるカルの、当時彼が置かれていた立場によるところが大きい。

 繰り返しになるが、カルは漁師の子どもである。そしてロイヤルティ・アイランドという町において、それはほぼ唯一無二の価値観と強くつながっている。漁師となって、アラスカの海で人生の大半を過ごすこと――ロイヤルティ・アイランドで生きるということは、すなわち漁師として生きることであり、そういう意味でカルの父親は、もっとも典型的なロイヤルティ・アイランドの住民だと言うことができる。だが、いっぽうでカルの母親は、父親によってロイヤルティ・アイランドに連れてこられた「よそ者」であり、漁師の妻としての生き方―― 一年の半分以上を夫のいない孤独に耐えなければならない生き方に、どうしてもなじむことができずにいる。母親の存在は、人としての生き方がただひとつではない、少なくとも漁師になることだけが人生ではないことを象徴するキャラクターであり、カルは言ってみれば、ふたつの異なる価値観にさらされるような少年時代を過ごすことになった。

 リチャードの漁業を放棄するという宣言は、ロイヤルティ・アイランドの住民としては到底受け入れることのできない暴論であることを、カルは理解している。だが、そうした価値観にどうしても慣れることのできなかった母親の姿をまのあたりにしている彼は、他の生き方を理解しようとしない町のあり方もまた、ひとつの暴論であることも理解できる立場にいる。とくに、とあるきっかけでリチャードと奇妙な時間を過ごすようになってからは、むしろリチャードのほうに理解を示すようなところさえ出てくるのだが、それはいかにも不安定で危なっかしい時間であり、けっして長続きするものではないし、じっさいに物語の最後には破綻することになる。

 町の創設者であるローリー・ゴーントの、なかば神話めいた物語や、カニ獲りかごごと船から放り出され、海底に沈んでいくというサムの逸話など、いかにも漁港の町らしいエピソードが物語に深みを与えるいっぽう、カルの母親がかける数々のレコードのタイトルや、カルの友人であり、映画監督を目指しているというジェイミーとともに観た映画といったサブカルチャーの要素も散乱する本書は、全体としてどこかアンバランスでありながらも、危うい均衡を保っているという印象を受ける。そしてその不安定さは、カルたちが抱えることになったある犯罪の記憶とも深くつながっている。

 人の価値観というのは、本来であれば人それぞれであって、むしろ同じであることを強要できるという考えこそが異常だと言うことができる。だが、人はときに、そうした価値観の共有が不可能ではないという幻想に囚われてしまうことがある。とくにその人にとって、その価値観が人生そのものであるような場合、異なる価値観を認めてしまうことは、そのまま自身のそれまでの人生を否定することになる、という観念と結びつきやすい。誰しも自分が大事にしてきたものに裏切られたりすれば、それまで注いできた愛ゆえに、その憎しみも大きく、深くなっていく。本書を読み終えて思うのは、なんらかの犯罪行為というのは、けっして感情が高ぶったり衝動に駆られたりすることで起こるのではなく、たったひとつの価値観という、ある種歪んだ理屈によって生じてしまうのだということである。そしてそれは、語り手であるカルもそうであり、また本書を手にしている私たちにしてもけっして例外ではない。

 ロイヤルティ・アイランドは奇妙な町だった。その経済の中心は二千マイル北のベーリング海にあって、子供たちは幼いころからずっとそこで働くことを夢見ながら、それと同時に、町を去ることも夢見ていたのだから。

 本書のタイトルにある「フリント船長」とは、スティーヴンスンの『宝島』において、財宝を骸骨島に隠したとされる海賊であり、その悪名ばかりが知られる存在であるが、カルの父親が息子にせがまれて話してくれた物語は、その船長がまだ悪人ではなかったころの創作ものであった。それは自身が船乗りである父親としては、まさにうってつけの題材であったろうことは想像に難くないが、そのフリント船長がけっきょくは海賊としての悪名を轟かせることになるというのは、本書を読み終えてあらためて考えてみると、非常に象徴的だったと言うことができる。はたしてフリント船長は、どのような気持ちで海賊となったのか――それこそが、本書から読み取るべき最大のテーマである。(2013.05.08)

ホームへ