【講談社】
『フリッカー式』
鏡公彦にうってつけの殺人

佐藤友哉著 
第21回メフィスト賞受賞作 



 自分の人生はほかならぬ自分だけのものであって、だからこそ自分の意思で選択し、その結果に対しては可能なかぎりの責任を負いたいと思うものであるが、世の中というのはとかく理不尽な法則がはたらいているらしく、なかなか自分の思いどおりに物事が動いていかないのが定説だったりする。ごく簡単な例をあげるなら、あなたに恋人がいるとして、今度の週末にあなたは恋人と海にでも行きたいと思っていたとする。だが、肝心の恋人が海になんか行きたくないと主張すれば、あなたの思惑はその時点で頓挫することになる。もちろん、あなたは恋人を説得するなどして強引に海に連れ出すことができるかもしれないが、仮に海に連れ出すことに成功したとして、あなたが当初考えていた「楽しいデート」になるかどうかは微妙なところだろう。

 人はたったひとりで生きていけるほど強くはないし、また集団によって形成される社会のなかで生きている以上、意識するしないにかかわらず必ず他の誰かの恩恵を受けることになる。もし、世界があなたひとりのものであれば、人生は絶対にあなたの思いどおりになるだろう。残念なことに、世界はあなたひとりのものではなく、さまざまな人間のさまざまな思惑が渦まいている。それが真実の世界の姿だ。だが、自意識を獲得してしまった人間が認識できるのは、あくまで主観に彩られた世界のみである。結果として、お互いが自身の主観による世界を相手に押しつけることになり、そこから何らかの衝突や摩擦が生じていく。言ってしまえば、それが他者とコミュニケーションをとる、ということの本質でもあるのだ。

 世界はあなたにとって特別なものではない。だが、あなたにとってあなた自身は唯一にして特別なオンリーワンである。本書『フリッカー式』を読んで、私がまず感じたのは、この世界と自意識とのギャップをうまく処理することのできない人々の、非常に醜く歪んだ世界を描いた物語だということである。そしてそれは、常に自分の主観で形作られているはずの世界のなかに、自分以外の何者かの思惑がなかば強引に割り込んでくる、という形で描かれていく。

 たとえば、本書の語り手である鏡公彦は、とある少女たちの拉致を計画し、それを実行に移している犯罪者である。理由は単純だ。その少女たちの父親、あるいは祖父が、理不尽な理由で妹の佐奈をレイプし、結果として彼女を自殺に追い込んだからである。本来なら当の本人たちに復讐をはたせばいいのだが、彼らは日本ではそれなりの身分の著名人たちばかりであり、なかなかおいそれと手を出すことができない。そこで公彦は、彼らの関係者である少女たちに目をつけた――おそらく、公彦の犯罪を動機づけるにはそれだけで充分なのだろう。だが、不思議なことに公彦は、じっさいに拉致してきた少女たちに対して、とくに何もしようとはしない。彼の思考のなかには、少女たちを拉致するという目的だけがあって、それから何をどうすべきかという思考が抜け落ちてしまっているのだ。

 復讐とはかぎりなく個人的な感情に突き動かされた行為である。にもかかわらず、その復讐の執行者である公彦が、復讐すべき対象に対して、極端にいえばなんの感情をもてずにいる――このなんとも珍妙きわまる事態の原因は、公彦の復讐劇が完全に他人から与えられたものだ、という点にある。なんの脈絡もなく公彦の前に現われ、佐奈がじつはレイプされたという事実を見せつけ、さらにはなんともご丁寧なことに、ターゲットとなる少女たちの詳細なタイムスケジュール表まで用意してきた、大槻涼彦と名乗る謎の男の存在は、公彦にとっては彼自身のものであるはずの人生に、強引に割り込んできた他者である。この他者の介入がなければ、おそらく公彦は「復讐者」という役割を演じる必要もなかったはずなのだ。

 この「他者の介入」という、本書を特徴づけるひとつの要素は、公彦の恋人である明日美の物語についても言える。彼女には、「突き刺しジャック」と呼ばれる連続少女殺人犯と、視覚を共有するという奇妙な能力があった。だが、この視覚の共有は彼女の意思とは無関係に、「突き刺しジャック」が殺人を犯す瞬間だけに限定されていて、能力というよりも性質のようなものである。そしてある日、いつものように視覚を共有した明日美が見たのは、無二の親友だった小林冬子が殺される瞬間であり、これを機に彼女は、ただ怖れるのではなく、「突き刺しジャック」と立ち向かう決意をすることになる。

 本書はこのように、公彦を中心とした物語と、明日美を中心とした物語のふたつの流れがあり、それぞれの物語が交互に語られていくという形で進んでいく。はたして、公彦は三人の少女の捕獲をはたすことができるのか? そして明日美は「突き刺しジャック」の正体を突き止めることができるのか? それはいっけんすると、いかにも彼らを突き動かすのに充分な動機づけであり、また物語を展開させるのに必要不可欠なものでもあるが、ひとつ重要なのは、公彦にしろ明日美にしろ、そもそも彼らを突き動かす原因となった情報が、形こそ違え他者の手によって強制的に与えられたものにすぎない、という共通点があることだ。そういう意味では、本書において間違いなく主要登場人物としての立場を与えられているはずの公彦と明日美は、じつは主役として動いているわけではなく、より大きな物語を展開させるための端役にすぎない、ということになる。では、この物語のなかで本当の主役は誰なのか? そして本書が抱えている物語の真の姿はいかなるものなのか? それこそが、本書のミステリーとしての醍醐味なのだ。

 断言するが、素晴らしき我が一族、鏡家は壊れている。
 長女も長男も次男も次女も四女も、見事なまでに破壊されていた。まともなのは僕と佐奈だけだ。

 すでに自殺してこの世にいない長女、ロボット工学を研究していて人間そっくりのロボットをつくろうとしている長男、百発百中の予言をする、同人誌描きの次女、なぜか公彦の言動や心の中まで見抜いてしまう次男――例の「突き刺しジャック」や、明日美とともに「突き刺しジャック」を追っている祁答院浩之もふくめて、たしかに本書の登場人物たちは、どこか常軌を逸している者たちばかりである。だが、本当に常軌を逸しているのは、はたして誰なのか? あくまで表面上は、ごくまともな物語をよそおって展開していく本書が、その最後に見せることになる醜く歪んだ世界の形は、そのまま私たち読者の生きる世界で大量に生み出されては消費されていく、いかにもな展開を見せるすべての物語に対する痛烈な皮肉のように思えて仕方がない。少なくとも、ことあるごとに甲斐甲斐しく兄の世話を焼くような可愛らしい妹の存在にある種の幻想を抱いている人にとっては、このうえなく痛烈な物語として心に残ることにはなるだろう。(2005.08.03)

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