【文藝春秋】
『遙かなるセントラルパーク』

トム・マクナブ著/飯島宏訳 



 貨幣という便利なシステムによって、さまざまなモノやサービスがお金と交換できるようになった社会を生きる私たちにとって、お金の有無は豊かさの指標である以上に、この社会で「生きる」ことに直結する力の指標にもなっている。多くの金をもっている人、多くの金を稼ぐ人が、そうでない人と比べ、「生きる」力に優れた強者であるという認識は、ある意味で間違いではない。貨幣経済が磐石である社会において、所有するお金の額の多さは、そのまま交換できるあらゆるモノやサービスの所有につながるからである。私たちは現在、衣食住といった生きるために最低限必要なものを手に入れるのにもお金を必要とする。逆に言えば、お金がなければそれらのものを手に入れることが困難であり、それは自身の生命を維持できないということでもある。

 だが同時に、私たちはお金というものが、ただの「信用」でしかないことを、心のどこかで認めている。それはもともとはただの金属であり、紙切れだ。そして貨幣経済が成り立たなくなれば、お金も同時にその価値を失うことになる。本当の意味での生きる力とは、じつは所有するお金の多さとは別のものである。今の貨幣経済の仕組みにあまりに慣れてしまっている私たちは、なかなかそのことに思い至らないのだが、少なくとも、お金のために命を奪ったり、自ら命を絶つような事態がどこか普通ではないとうすうす感じてはいるはずである。

 ロスアンジェルスからニューヨークまでの三千マイルを、三ヶ月かけて走り続けるというアメリカ大陸横断大レース――今回紹介する本書『遙かなるセントラルパーク』は、そんな無謀極まりないウルトラマラソンを題材とした作品である。時代は一九三一年の春、世界的な不況に見舞われているなか、チャールズ・フラナガンによって開催されることになった「トランス・アメリカ・マラソン」は、総合優勝の賞金十五万ドルをはじめ、総額三十六万ドルという莫大な賞金額を賭けたプロ・レースだ。この、いろいろな意味で史上最大のフットレースは大きな話題を呼び、二千人もの参加者を集めることになったが、本書を評するにおいてまず考えなければならないのは、このレースの参加者の目的が何なのか、という点である。

 だけどこのレースはまったく新しい世界だ。ここでは闘いの相手はお互いじゃない。そいつは砂漠であり、山であり、寒さ、風、太陽、雪なんだ。われわれはみんなでこういうものに立ち向かうんだ。ひとつのチームみたいになってな。

 優勝賞金の十五万ドルは、当時の金銭価値にすれば相当な大金であり、まさにこのレースの目玉であることは間違いない。またそれ以外にも、スポンサーとなった企業がいくつかの区間ごとに賞金を用意していることもあり、「何のためにレースに出るのか」という問いかけに対して「お金のため」という回答が真っ先に出てくるのは当然のことと言える。じっさいに本書に登場する参加者のなかには、その理由はさまざまあるものの、今回のレースで手に入るかもしれないまとまった賞金が目当ての者も少なくない。

 だが同時に、これらの賞金を得るために支払わなければならないコスト――アメリカ大陸横断レースで好成績を出すというコストを考えたときに、得られる金額とその可能性がそれにどれだけ見合っているかという問題が生じてくる。賞金の額は魅力だが、それは誰もが手に入れられるわけではない。しかも「トランス・アメリカ・マラソン」は、これまで誰も経験したことのない距離と期間で行なわれるフットレースである。必勝法などなく、誰が勝つかも予想不可能。言い換えるなら、これはギャンブルに近いものがあるのだ。ビジネスを考えるうえで欠かせないコストパフォーマンスの観点において、レースに参加することは割に合わないと考えるのが普通である。

 にもかかわらず、二千人ものランナーが集まることになった。

 レース参加者の目的は何なのかを考えることは、じつはレースの魅力とは何なのか、しいてはこの前代未聞のウルトラマラソンの何に惹かれたのかを考えることでもある。そしてそれは、賞金以外の何かなのだ。いや、当初は間違いなく賞金目当てで参加したのだとしても、もしそれだけが目的であればけっして長続きしないのが「トランス・アメリカ・マラソン」だと言ってもいい。だからこそ、五十代になるプロ長距離ランナー、アレグザンダー・コールの上述の台詞が生きてくる。

 アレグザンダー・コールは他の参加者とは異なり、賞金額にはあまり興味をもっていないランナーとして登場する。彼の人生は、まさに走ることとともにあったが、それまで公式のアマチュアレースには参加できず、実力はあるにもかかわらず無冠に等しい状態にあった。今回のレースは彼にとって、ランナーとしての総決算、自分の名前を歴史に刻む最後のチャンスとしてとらえているのだが、そうした人間としての矜持や誇りといったものが、多くの苦難を乗り越えるうえでいかに重要なものであるかを代弁する者として、他のランナーを導き、引っ張っていく役割を負っている。本書に登場する人たちは、ある者は職を失い、どん底にある労働者であったり、ある者は違法な地下ボクサーであったりと、人間としての尊厳を踏みにじられた過去のある者が多いが、今回のレースを通じて、真に人間として大切なものは何なのかを考え、それに気づいていく過程を描いた物語でもあるのだ。

 そしてそれはランナーだけでなく、興行主をはじめとする多くの関係者にとっても無関係ではない。二千人もの大所帯を率いてアメリカ大陸を横断することは、当然のことながら興行主たるフラナガンにとってもはじめてのことであり、彼らの宿泊や食事、医療全般などの維持だけでも大きな金銭的な負担である。そのうえ、来年のオリンピックをひかえた合衆国オリンピック委員会にとって、「トランス・アメリカ・マラソン」の成功は大きな損害につながると見なされ、さまざまな形で妨害工作をかけてくる。そうした窮地を前に、フラナガンをはじめとする者たちがどのようにして切り抜けていくのかも本書の大きな読みどころのひとつであるが、ランナーとして出場しているわけではないフラナガンたちが、まるで選手たちの意気込みに感化されるかのようにトラブルに挑み、克服していく姿は、ランナーたちの奮闘と同じくらい感動的である。

 フラナガンにしろ、ヒュー・マクフェイルをはじめとする選手たちも、当初はお金や名声といったものが目的ではじめたものが、次第により崇高で大切なもののためにレースを続けようと変化していくという点で、魂を共有していると言うことができる。そしてその最初の布石は、レースの第一日目が終わったさい、怪我で失格した選手がフラナガンに対して「参加するだけの値打ちがあった」と語るシーンで、すでに打たれている。前人未到、過去に誰もやったことのないとんでもないことに挑戦すること――それは人間だけに許された、人間だからこその行為である。だからこそ私たちは、本書の内容にかんして惜しみない賞賛を与えずにはいられない。

 はたしてこの「トランス・アメリカ・マラソン」は、無事ランナーたちをニューヨークまで走らせることができるのか、そしてそのとき、一番にテープを切ることになるのは誰なのか――だが読者は、物語が進むにつれてそれ以上に大切なものの姿をたしかに目にすることになるだろう。けっしてお金では交換できないものを得るために、苦難に立ち向かう人たちの思いをぜひ感じとってもらいたい。(2015.04.19)

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