【文藝春秋】
『フラミンゴの家』

伊藤たかみ著 



 一度壊れてしまったものを作りなおすというのは、新しいものを一から築いていくよりもはるかに大きな労力を必要とするものである。なぜなら、当事者にとって「壊れた」という事実は、まぎれもない過去の事実として残っているものであり、そうである以上、その「壊れた」という事実を克服していくのは並大抵のことではないからだ。壊れるというのは、しばしばマイナスの思考と直結する。人間とは不思議なもので、一度何かに失敗すると、それとともにそれまであったはずの自信や自尊心といったものも一緒に砕けてしまうことがある。壊れてしまったものを作りなおすということは、まず壊れてしまったものと正面から向き合わなければならない。そしてそれは同時に、自分が失敗したにしろ、他に原因があったにしろ、自分の今の状態を受け入れていくことにもつながっていく。

 一度壊れたという事実は、当事者に「また壊れるかもしれない」という思いを引き起こす。そして、それはある種の恐怖となって当事者の行動をさまたげる。さらに言うなら、一度壊れたものは、完全に元通りにはならない。作りなおされたものは、たとえ外見が同じように見えても、それはやはりかつてあったものとは別物である。とくに、人間関係という目に見えないものについてはなおさらだ。

 本書『フラミンゴの家』に登場する正人と晶は、血のつながりという意味では親子ではあるが、いっしょに暮らしているわけではない。関西の田舎から東京の大学に出てきた正人は、そこで知り合った翔子と結婚、ひとり娘の晶もさずかるものの、当時共同で進めていた事業の方向性をめぐって対立することが多く、お互いに消耗しきったあげく六年前に離婚したという事情をかかえている。晶は翔子が引き取り、故郷に戻った正人は母の葵が経営するスナックのひとつをまかされていたが、弟の龍二や友人の高井戸のような商才はなく、今ひとつ自分に自信がもてずにいた。

 そんな正人が六年ぶりに晶と会うことになる、という場面から本書は始まる。翔子が手術のために入院することになり、小学六年になった晶を夏休みのあいだ正人があずかることになった、というのがその経緯であるが、ふたりのあいだはどうしようもなくぎくしゃくしている。それはたんに、長いあいだ会っていなかったということだけでなく、正人は自分がじつはヤンキーあがりであり、故郷にはそんな悪友が多数いることや、自分が新しい恋人であるあや子と暮らしていることなどを隠し、あくまで晶の知っている父親としてふるまおうとしていることから来るぎこちなさであり、また晶は晶でそんな父親の違和感を敏感に察しているだけでなく、かつて正人が何も言わずに姿を消したこと、そして母が倒れたのも正人が出ていったからだという怨みにも似た感情をもっていることから来るぎこちなさでもある。

 正人と晶、ふたりの主体をそれぞれ行き来する形で展開していく本書のなかで、ふたりの建前としての家族の形は、すでに壊れてしまっている。お互いに血のつながりのある親子でありながら、世間でいうところの「親子」としてふるまうことができずにいるぎこちなさは、おもに正人が晶に対していろいろなこと――たとえばスナックの仕事のことなどを隠そうとしているがゆえの、曖昧な態度に起因するものであるが、そのなかでももっとも深刻なものが、翔子の病気にかんするものだ。彼女がガンであること、その進行が予断を許さないものであることは、当初は正人をはじめわずかな人しか知らない事実であり、もちろん晶にもそのことは伏せられている。だが、周囲の状況の機微にさとい彼女は「もしかしたら」という雰囲気をなかば察しているところがあり、それゆえに自分のことは自分で決めると無理をしてでも強くあろうとしているところがある。

 人と人との関係において、なんらかの秘密があるというのは、それがどういった性質のものであれ、あまり良いことだとは言えない。だが、親子という関係においてはどうなのか、ということを、本書を読んであらためて考えずにはいられない。血のつながりというのは、たとえば恋人や配偶者といった、自分で決められるものではなく、産まれた瞬間からすでに決まってしまっているものである。だが、その切っても切れない関係性ゆえに、そこにある種の安定があることもまた事実だ。正人と晶の関係について言えば、当初は血のつながりという意味での親子という関係を意識してはいるものの、その具体的なつながりがすでに壊れてしまっているがゆえに、ふたりはあらためて関係を築いていく必要に迫られた状態にある。ふたりがまったくの他人であると仮定すれば、そのぎこちなさは納得のいくものなのだが、下手に血のつながりがあるがゆえに、その関係はぎこちなく、ふたりの心も大きく揺れ動いていく。そうした心の変化を、本書はお互いの立場からうまくとらえている。

「大人は、大人でしかないで」――(中略)――「お前のこと全部わかってはやれん。大人いうたって神様とはちゃうから。大人ってのは、つまり、ただの人間や。子供が大きくなっただけの話やから、頼りすぎるな」

 翔子のガンがすでに他の部位に転移していて、手の施しようがないという事実を晶に伝えるさいの、この正人のセリフは、正人が隠そうとしていたもろもろのことがすっかり晶に知れてしまい、お互いにひとりのむき出しの人間として向き合うことになったという経緯を経ているからこそ、重く響くものがある。こうした人と人との関係――まさにひとりの対等な人間どうしの関係という点では、たとえば正人の恋人であるあや子が代表格で、彼女はいずれ正人と結婚したいと考えてはいるが、晶に対してけっして「母親面」はしないと語り、だからこそ晶にも「子供面しろ」と言う。そういう意味で、本書は一度壊れた親子関係、家族の再生を描いた物語であるが、その形は、私たちが慣れ親しんでいる「家族」とはまた異なるものである。だが、そのあらたな形は、読者にけっして悪い印象を与えはしない。

 そして本書にはもうひとつ、正人とその母である葵との関係も同時に描かれている。本書は晶とその両親を軸とした話とはべつに、葵を中心とする経営拡大の話が軸となっているのだが、いっけん本書のテーマとはあまり関係なさそうなそのもうひとつの軸が、葵と正人との関係、しいては葵をはじめとするその血縁というものを描くための装置であると考えると、たとえばそれぞれ子どもに対して何らかの隠し事がある、といった点で、じつは双方の親子関係が対になっていることに気づく。そして、このふたつの親子関係において共通しているものがあるとすれば、それは親が子どものことをいろいろと考えている、という一点にこそある。

 本書の物語構造を、たとえば核家族の限界と、数世代の家族がいっしょに生活するかつての大家族制度の復権、ととらえるのは簡単だが、たんにそれだけでは説明のできない、もうひとつの家族の形というものが、そこにはたしかにある。何かが壊れ、何かが失われ、しかしそれで終わるのではなく、またあらたな形を成していく家族――けっして変わらないものなどないこの世において、変わってしまうこと、変わっていくこと、そしてそれをどのように受け止めていくのかを、フラミンゴの体の色で象徴した本書をぜひ読んでもらいたい。(2008.06.04)

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