【光文社】
『魚舟・獣舟』

上田早夕里著 



 前回紹介した伊藤計劃の『虐殺器官』において、言葉というものを、人間が進化の過程で獲得した「器官」のひとつだと見なす考えが作品のなかで語られていた。言うまでもなく、人間は集団で社会を形成することで厳しい環境を生き抜いてきた生き物であるが、集団をつくるのは何も人間だけではない。人間が確立した言語体系は、より複雑な情報を相手に伝えることができる。そして人間はそうして集めてきた情報をもとに、未来をある程度予測する力を――たとえば明日の天気や、保存した食料がいつごろ無くなるのか、といった予測を立てることができるようになった。それらの能力は、人間という種の生存率を飛躍的に向上させた。そういう意味で、言葉は腎臓や肝臓といったものと同等、適者生存の産物なのだ、という理屈である。

 こうした考えは非常に興味深いものではあるが、いっぽうで言葉というものを人間だけに与えられた特権、言葉によって世界が秩序づけられ、現実を認識していくものだと考えている人たちにとっては、なかなか受け入れがたい考えでもある。理屈としては正しいし、納得のいくものであるかもしれないが、感情的な部分において、言葉が内臓などの器官と同じととらえることに、どうしても違和感を覚えてしまうのだ。

 科学技術の発達は、ヒトのDNAを解析し、脳のどの部分がどのような感覚や思考をつかさどるか、といった部分まで解明しようという勢いである。だがそれと同時に、倫理としての人間と生物としての人間との乖離に、人々は少なからずとまどうことにもなる。クローン技術によって生み出された人間や、人間そっくりのアンドロイドは、はたして私たち人間とどこまで同じで、どこが違うのか――思えば、SFというジャンルの作品には、常にそのような問題が内包されていたし、それこそがSFの魅力のひとつでもあった。

 哲学的な意味での人間と、生物としての人間の間にある深い溝――管理者たちは、それを分析とテクノロジーで埋めようとしているのだろうか。

(『小鳥の墓』より)

 本書『魚舟・獣舟』は、表題作をふくむ六つの短編を収めた作品集であるが、まずはその表題作の、SF短編としての完成度の高さに驚かされる。陸地の大半が水没した未来の世界、人々は残された陸地にとどまって生きる陸上民と、あえて海上を生活の場として過ごす海上民とに分化し、それぞれ独自の生活習慣や文化を築いていったが、異なるのは生活習慣だけではなかった。海上民は洋上での生活に必須な「舟」を、他ならぬ自身の遺伝子から生み出すよう、自らの体の性質を変化させていた。彼らの一族の女は妊娠すると、かならず双子を産む。ひとりはヒト型として生まれ、海上民のコロニーで過ごすが、もうひとりは魚の形で生まれ、海の中で過ごす。やがてヒト型が思春期を迎えると、魚型は自分の生まれた「舟」に戻り、兄弟であるヒト型の新しい「舟」としての契約を結ぶ。

 こうして誕生した「舟」は「魚舟」と呼ばれ、海上民の生活の場として活用される。だが、なんらかの理由で自分の兄弟との契約を果たせなかった「舟」は「獣舟」となり、食料をもとめて陸にあがるようになる。これら「舟」の存在は、海上民にとっては自分たちの同胞であり、姿かたちは違えど同族であるという意識があるが、陸上民にとってはただの魚類であり、「獣舟」にいたっては、自分たちの生活をおびやかす害獣でしかない。こうした複雑な設定が、短い物語の筋として無理なく編みこまれているところに、著者のただならぬ文才を感じるのだが、それ以上に重要なのは、「魚舟」や「獣舟」がヒトの女性から生まれ、ヒトと同じ遺伝子構造をもつ生き物であるという設定であり、そこから翻って、人間を人間として定義するものが何なのか、その境界線がどこにあるのか、という命題へとつながっていく点である。

 たとえば、『くさびらの道』では人間に寄生する真菌が日本に蔓延していくという、ホラーめいた物語であるが、この寄生茸はある化学物質を放出し、人間の記憶のなかから「人の姿」を幻覚として見せる作用をもっている。つまり、自身が取りついた人間と親しい間柄にあった非感染者の脳に作用し、取りついた人間の「幽霊」として相手を呼び寄せることで、生物としての種の存続を図る茸なのだ。ふつう、こうした仕組みが解明されれば、対抗する手段も確立され、脅威は脅威でなくなる。だが、人間の感情はときに、そうした理屈ではどうにもならない部分で人を突き動かしていくことがある。自分の家族や恋人が寄生茸に犯され、すでに生きていないと頭ではわかっていても、過去の記憶の姿を借りて現われる「幽霊」の誘いに、助けを呼ぶ声に、対抗するのは難しい。本書に収められた短編は、そうした人間の、人間であるがゆえの弱さや儚さを、透徹した視点で描いていく。

 妖怪と呼ばれる異形の存在が登場する『真朱の街』では、妖怪の口を借り、サイバネティックスと再生医療の発達によって、人間の能力を補完するだけでなく、より向上させる方向に進んでいく人類の姿が、自分たち妖怪のそれとどこが違うのかと問う。それまで私たちがあたり前だと思っていた人間の外見や性差といった概念が、科学の発達とともにあたりまえでなくなっていく世界というのは、同著者の『ゼウスの檻』にも見られたテーマだが、本来は人間にとって「解明できないもの」の代名詞である妖怪という概念が、そのまま人間自身にはねかえっていくというのは、なんとも皮肉なものだと言える。

 そして、この「異形」であるという概念が、たんなる人間としての姿かたちとしてではなく、人間社会との適合性という形で問われると、『小鳥の墓』のような作品ができあがる。本書のなかで唯一中編ともいうべき長さの書き下ろしである『小鳥の墓』は、かつてダブルE区――子どもの健全な教育を目的とした実験都市で育った殺人鬼の過去の物語。その方針とは真逆の存在である殺人鬼が、どのような過程を経て今の彼になったのか、そしてダブルE区とは何なのかについては、ぜひとも本書を読んでたしかめてもらいたいが、自身が今いる社会に違和感を覚え、どうしてもなじめないままアウトローと化す人々の存在は、『魚舟・獣舟』の語り手をはじめ、著者のもつもうひとつのテーマでもある。

 科学技術の発達と人間の倫理観、人が人であると認識する境界線――人間でありながら、その境界線がかぎりなく曖昧であるという事実は、じつはこのうえないセンス・オブ・ワンダーであることを、本書は教えてくれる。私たちにとって一番の謎は、他ならぬ私たち自身のことなのかもしれない。(2011.06.01)

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