【三一書房】
『ハートに火をつけて!』

鈴木いづみ著 



 私たちをとりまくこの世界が、私たちが思っているほどまともでも健全でもない、という事実は、おそらくある程度物心のついた人であれば、誰もが多かれ少なかれ気づいていることである。それでもなお私たちがそんな世界で生きていくことができるのは、そうした事実を適当に受け流し、とりあえず見ないようにしていけるだけの鈍さがあるからであり、また大半の人が、差し迫った今を生きていくのに懸命であるからに他ならない。夢や目標をもっている人は、その夢なり目標なりを実現させるという目的のために生きていけるだろうし、たとえそんな立派なものがなかったとしても、とりあえず自分を大切にしたいとは思うものだろう。

 私は周囲の物事に対してけっして敏感なほうではない。それゆえに、しばしばその場の空気が読めなかったり、相手の感情や思っていることを察してやれなかったりするのだが、最近になって、こうした鈍感さというのは、生きていくためのある種の才能ではないか、と思うようになっている。なぜなら、この世界を把握しているのは他ならぬ自分自身であり、そうした主観から逃れるすべを持たない以上、私たちが感じるこの世界のデタラメさ、不条理さは、そのまま自分自身のデタラメさ、不条理さと直結してしまうからである。そうした、自身と世界との境界に敏感でありすぎる人が、その違和感を真正面から見すえつづけようとするなら、いずれ世界を壊すか、あるいは自分を壊すかという究極の二者択一を迫られることになる。鈍感さというのは、そうした事態を避けるための予防線ではないか、とふと思うのである。

 今回紹介する本書『ハートに火をつけて!』は、著者の自伝的要素の強い作品であるが、読み終えてとくに印象深く感じたのは、セックスやドラックになかば依存するような無軌道さや、常に毒を含んだような言動、さらにはアルトサックス奏者であるジュンとの突然の結婚と、その後の壊滅的な生活のあげくのジュンの死といった、センセーショナルでスキャンダラスなその人生模様もさることながら、そうしたじつに濃密な人生をすごしていながら、どこまでいってもどうしようもなく乾ききった視点――他ならぬ自分自身のことであるにもかかわらず、まるで他人を眺めるかのような、感情を廃したドライな視点がけっして崩れることがない、という点である。

「ちょっとはなれて見てるから。ドラマの主人公みたいにすきになる。映画見てるのといっしょ。三本見て、それぞれにちがうおもしろさを感じることって、あるでしょう? だから複数の相手をすきでいられる」

 私は鈴木いづみという著者について、ほとんど何も知らないまま本書を読み進めることになったのだが、もし著者の略歴についてあらかじめ調べておくことがなかったとしたら、おそらく本書の性質について、この書評内で「自伝的要素」という言葉を使うことはなかっただろう。それだけ本書の内容が小説的だということでもあるのだが、作家としてよりも、むしろモデルや女優として、70年代のメディアを席巻する存在として有名な著者が、36歳という若さで自殺することになったという事実は、本書の「自伝的要素」とともに語らずにすませるわけにはいかないところがある。『読者は踊る』の斎藤美奈子風にとらえるのであれば、著者の生きかたは他の現代作家よりよほど純文学的なものであり、そしてまた「マチズモ」を身につけていた、ということになるのだろうが、なるほど、本書のなかのいづみが自身のことを「女のオカマ」ととらえるシーンは、そのふるいつきたくなるような女性としての肉体とは裏腹に、彼女自身が女としての立ち位置を、自分をとりまく世界にうまく合わせることができずにいたことを物語っていると言えなくもない。

 まぎれもない女としての魅力的な体をもち、その魅力を使って何人もの美少年との逢瀬を繰り返しているにもかかわらず、そんな女としての自身の性にいびつさを感じ、「そのきわだった特徴だけを採集」してつくられたオカマのように思わずにはいられない――そんな彼女の分裂した傾向は、本書のいたるところに見受けられるものだ。男とのつながりを求めながら、その関係が深まってくると、逆に壊さずにはいられない。恋愛に関しては人一倍貪欲で、たいして気にしていない男であっても自分が他の女と比べられることが許せないだけの自尊心があるいっぽうで、冷めるのも異常に早く、相手から愛されることについては淡白どころか、かえってうっとうしいとさえ思ってしまう。そんないづみの、精神と肉体のバランスのどうしようもない歪みは、自身と、自身がとらえる世界とのギャップに人一倍敏感であるがゆえのものである。

 いづみの生き方は、自分がまぎれもない自分であること、自分と世界との境界をはっきりさせようと、あちこちで摩擦を引き起こすかのようなものを感じさせる。だが、それでいて読者にひりひりさせるような熱を感じさせるようなことがない。その冷えた摩擦熱は、当然のことながらセックスするときの摩擦にも通じるものだ。本書のタイトルで『ハートに火をつけて!』を叫んでいるいづみは、しかしそのいっぽうで諦念にも似た思いで自身をふくめたすべてを眺めているようなところがある。ジュンとの結婚に愛はなかったと語り、しかし多くのものを否応なしに彼に与え、そしてその死を語るときでさえ、その征服欲を非難せずにはいられないいづみ――すべてを受け入れても、すべてを拒否しても、自分と世界との差異は埋められない、という諦念は、あるいは彼女自身のゆるやかな死を意味していないだろうか。けっして燃え上がることのないハートをかかえたひとりの女の、静かな狂気が本書にはたしかに満ちている。

 世界がこわれるとき、わたしもこわれる。でも、わたしのケースでは、世界は最初っからこわれてるわ。てんでんばらばらなのよ。収拾がつかないの。

 作家にとって小説を書くという行為は、自身の世界をとらえる作業でもある。最初から壊れた世界をかかえたまま、駆け抜けるように生き、そして死んでいったひとりの女性がとらえた世界は、はたして読者にはどのような風景を映し出すのだろうか。(2007.02.15)

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