【文藝春秋】
『ファイアボール・ブルース』

桐野夏生著 

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 まぎれもない自分、というものについて、ふと考える。

 私たちがこの現実という社会に人間として生まれた以上、私たちは常に社会という大きな枠組みの中の一員である。そしてその中で、私たちは意識するしないにかかわらず、不特定多数の誰かの助けを受けて生きているし、またそうした他者の助けなくては生きていくことかできない。それはまた、自分の社会における活動が、自分以外の誰かの助けになることを意味しており、社会は基本的に、そうした大勢の大勢による相互扶助によって成り立っていると言うことができるだろう。

 だがそこに「まぎれもない自分」という言葉が放りこまれたとき、個人と社会との間に少なからぬ衝突が起きるのを、止めることはできない。なぜなら、社会が持つ「相互扶助」とは、じつはまぎれもない「ギブアンドテイク」であり、それはしばしば個人がまぎれもない個人であることを抑制し、集団の中の名もない誰かとして個人を束縛する性質のものだからだ。

 まぎれもない自分、というものを目指すこと、それは必然的に、誰かに助けを受けることを拒否し、ただひとつ、自分のみを信じ、すべてを自分の責任において選択していくという、孤独な道を歩いていくことであるのだ。

 本書『ファイアボール・ブルース』は、女子プロレスという団体の物語である。そして、弱小新興団体「PWP(パシフィック・ウィメンズ・プロレスリング)」の中では、いや女子プロレス界全体においても間違いなく最強のプロレスラー、「ファイアボール」の異名を持つ火渡抄子と、その付き人で、いまだ1勝もあげることのできない近田のコンビが、火渡と対戦した外人選手の失踪事件の謎を追う、という展開を考えるなら、本書はミステリーというジャンルにおさまる作品なのかもしれない。しかし、そうした定義付けを超えて本書が強烈な光を放っているのは、間違いなく火渡抄子という「孤高の格闘家」の圧倒的な存在感によるところが大きいと言わなければなるまい。

 私はけっしてプロレスという競技について詳しいわけではないが、プロレスが一種のショービジネスである、というのは昔から言われていることだ。プロレスラーは、観客の注目を集めるために大技を繰り広げ、さまざまなパフォーマンスを見せ、また大技をあえてその体で受け、派手に倒れたり、場外乱闘にもつれこんだりする。そうしたショーの部分も含めて「プロレスラー」であるとするなら、火渡は厳密な意味でのプロレスラーではない。なぜなら、彼女が目指すのはひたすら「勝つためのプロレス」であり、その心にあるのはより強い相手と戦いたいという、荒ぶる魂だからである。

 もともとアマチュアレスリングの世界チャンピオンでありながら、高校卒業後は大学にも実業団にも属せず、アルバイトをしながら黙々とレスリングを続けていたという火渡は、群れることを嫌い、付き人がいるにもかかわらず、ほとんどのことを自分でしてしまう。また物語の後半、PWPが存続の危機を迎えそうなときも、ひとり黙々とトレーニングをしたりして、どこか人を寄せつけないオーラのようなものをまとった存在として描かれており、それは、付き人に飼い犬の世話までさせる同団体のアロウ望月や、大手団体「オール女子」のカリスマ的存在のHIMIKOなどとは、あきらかに異質な「個」なのだ。

 そう、彼女は「火渡抄子」以外の何者でもない、と断言できるほど圧倒的な自分を持ちつづけ、そのためにこそ戦っている。そして、著者である桐野夏生――常に「女」であることから脱け出そうとする強い女性を描きつづけてきた著者が、女でありながらおのれの肉体を武器にして戦う女子プロレスの世界に目をつけたのは、言わば運命とも言うべき取り合わせではないか、と思うのだ。

 そんな火渡の強さは、どこか『19分25秒』の競歩選手がもつ孤高にもつながるものを感じさせるのだが、何より付き人の近田に向かって放たれた、この言葉に集約されている。

「わかってるだろう。てめえ一人だってことだよ。何があってもてめえ一人。それがプロレスなんだ」

 なぜ自分が試合に勝てないのか、その答えを火渡に求めた近田は、その後の試合で火渡本人と対戦することになり、完膚なきまでに叩きのめされてしまう。火渡にあこがれ、火渡のようになりたいと思って入団してきた近田を、火渡はあえて突き放した。彼女自身が目指す「強いプロレス」――本書はまた、それまで半人前だった近田が、自分の足で歩きはじめる成長物語の要素を持ち合わせている。そして、本書のラストが指し示すのは、おそらく火渡自身にとっても、ひとつの「成長」を意味するものではないか、と思わずにはいられない。

 はたして、失踪した外人選手の背後には、どのような陰謀があるのか、PWP存続の危機はどうなるのか、そして近田は、夢の1勝をあげることができるのか――著者のなかでは異色の「プロレス小説」をぜひとも楽しんでもらいたい。(2001.08.21)

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