【祥伝社】
『FINE DAYS』

本多孝好著 



 小さい頃、私がとった行動がもとで自分以外の誰かが怪我をしたり、害をこうむったりする事態が何度となく起こったことをよく覚えている。そのときの私はけっして誰かを傷つけようとして行動していたわけではないし、相手もそのことをわかっていたからこそ、それ以上何かを追及するようなこともしなかったが、自分の無分別な選択が、結果として相手を傷つけてしまうという思わぬ因果に、私はときに言い知れぬ理不尽さと、そして自分が何かの選択をすることへの恐怖を感じていた。そういう時期が、私の小さい頃にはたしかにあったことを、よく覚えている。

 今にして思えば、それが子どもであるがゆえの、外で遊んでいればいくらでも起こりえるありがちな事故のひとつであることはわかっているし、おそらく誰もが多かれ少なかれ、そういった体験をしたことがあるのだろうことも、理屈としてはわかっている。そもそも、ある結果に対する原因は必ずしもひとつであるとは限らないし、無限に連なっていく因果をたどっていくこと自体、不毛なことでもある。だが、人生が常にいくつもの選択の連続によって成り立つものであり、その選択いかんによって何か取り返しのつかない重大なことがおこるのではないか、という思いは、今もなお私をうんざりさせるときがある。私はできれば誰にも迷惑をかけずに生きていたいし、誰からも迷惑をこうむりたくはない。だが、いくらそう望んだとしても、私たちがこの世で生きていく以上、必ず何らかの選択を迫られることになるし、意識するしないに関係なく、その選択の結果は自分以外の誰かの人生に何らかの影響をおよぼしてしまう。そんな人間の生き方が、ときにすごく重く感じられることがあるのだ。

 本書『FINE DAYS』は、表題作をふくむ4つの短編を収めた作品集であるが、いずれの作品についても共通することがあるとすれば、それは登場人物たちが抱える過去――どうあがいてもけっして変えることのできない、ある重い過去が、その人物の現在をがんじからめにしてしまっている、という点である。表題作「FINE DAYS」における、最後まで名前の明かされることのなかった転校生の女の子は、以前に通っていた高校で自分に付きまとってくる男を呪い殺したという噂をともなっていた。「イエスタデイズ」の「僕」の父親は、レストランを中心とする事業の経営者として巨万の富を築いた人物であるが、かつては絵描きになることを目指し、その絵を好きだと言ってくれる女性と付き合っていた。「眠りのための暖かな場所」で大学院にかよっている「私」は、小さい頃に巻き込まれた自動車事故で、妹を置いて自分だけが助かってしまったことに強い罪悪感をかかえて生きているし、「シェード」の一人称「僕」は、現在付き合っている彼女が抱えている過去――かつて彼女が愛しあって結婚し、そしてあまりにも早く死んでしまった夫との過去について、自分がどのような態度で向き合うべきなのかを決めかねている。

 彼らが抱え込んでしまった過去は、いずれも「あのとき、ああしていたら」と振り返ることのできるような悠長なものではなく、もはや彼らの意思とはまったく別の領域ですべてが定まってしまい、否応なく選択するしかなかったたぐいのものばかりである。それゆえに、本書の内容はときとして怪奇現象めいていたり、あるいは過去を遡るSF的な要素、あるいはファンタジーとも言うべき要素を含んでいたりするのだが、重要なのは本書の作品集がどのようなジャンルに属するかということではなく、否応なくひとつを選ぶしかなかった選択肢が、もはや選択肢として成立しないものであるにもかかわらず、そして一度それを選んでしまった以上、その事実はけっして変えることができないものであるにもかかわらず、今を生きる登場人物たちの心の一部が、今もなおその選択肢の前に置き去りにされてしまっている、という点なのだ。

 男はいつまでも過去を引きずっているものだとよく言われるが、そういう意味では本書は男性的なものをもっていると言える。にもかかわらず、過去に自分の一部を置き去りにしたまま、まぎれもない現在を生きていかなければならない彼らの生が、あまりにも現実感から乖離してしまっていて、およそ生活臭さが感じられない、まるでガラス細工のような繊細さを思わせる点において、本書は非常に女性的でもある。もう少し踏み込んで言うなら、中性的というのだろうか。本書に登場する人たちは、いずれも性というものに対してあまりにも淡白な印象が強いのだが、それもまた彼らが根本的な部分で「今」を生きていない、という印象へとつながっていくひとつの要素である。

 人間誰しも、それなりに長く生きていれば、思い出したくない過去のひとつやふたつはかならず抱え込んでしまうものである。たいていの場合、どんな嫌な過去であっても時間とともに思い出に変わり、それで納得して人は前へ進んでいくものであるが、ときにその過去がいつまで経っても思い出とならず、その人をとりこにしてしまう場合もある。その人にとって、その出来事はまだ過去となっていないのだ。そしてそうであるかぎり、どれだけ多くの時間が流れていっても、彼のなかでは時間が進んでいかなくなる。本書に収められた短編集では、そうした過去に囚われた人物と、その人物と何らかの形で接触することになるもうひとりの人物とが必ず対となって登場する。そこに、厳密な意味での人と人との出会いと言えるようなものはない。なぜなら、ふたりのあいだには属している時間が決定的に異なるという、大きな溝があるからだ。だが、それでもなお、ふたりのあいだに何も起きないというわけではない。お互いのなかで何かが変わり、止まっていたはずの時間が少しずつ、ゆっくりと動き始める感覚がある。それは、ほんのささいな変化でしかないのかもしれないが、それと同じくらいたしかな変化の兆しでもある。その兆しの描き方が、著者はじつにさりげなく、それゆえに印象深いものとして読者のなかに残っていく。

「その闇の深さに怯える前に、それを照らす光に目を向けるべきだったのです。闇から生まれる闇などないのです。すべての闇は光から生まれます。違いますか?」――(中略)――「挑み続けること。闇から光を守るには、それしかないのです」

(「シェード」より)

 私たちはいつまでも過去を引きずったまま生きていくことはできない。だが、私たちの人生がけっきょくのところ過去の時間の積み重ねでしかないのだとすれば、およそすべての過去を捨て去って生きていけるほど人生を達観できているわけでもない。過去を忘れたいと思い、それでもその過去から逃れることができずにもがきつづける人々が、その過去と対峙し、挑んでいこうとするほんの小さな勇気が、本書のなかにはたしかに息づいている。(2005.07.11)

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