【みすず書房】
『リンさんの小さな子』

フィリップ・クローデル著/高橋啓訳 



 言葉というのがコミュニケーションのための不完全な道具である、というのは、私がこの書評を通じて何度か主張してきたことのひとつである。たとえば、私が今書いているこの書評にしても、自分がある小説を読んだときの感銘や想いをどれほど伝えられているか、という意味でははなはだ頼りないものがあると言わざるをえない。もっと適切な表現があるのではないか、あるいはもっと簡潔にまとめられるのではないか、ぐだぐだした説明になっているのではないか、あるいはもっと多くの情報をうまく詰め込めるのではないか――私が例に挙げているのはもっぱら書き言葉にかんしてであるが、もっと一般的な例として、好きになった異性に自分の想いを伝えるようなときに感じるもどかしさというのは、自分の抱く想いの強さ、特別さが、言葉という表現形式に置き換えてしまうことで、とたんにありふれた、陳腐なものとなってしまうのではないか、という恐れから来るものである。

 書き言葉にかんしては識字率の問題がつきまとうものであるが、今私が住んでいる日本にかぎった話をするなら、書き言葉にしろ話し言葉にしろ、ほぼすべての人が共有しているひとつの知識だ。何世紀も前の時代とは異なり、言葉は誰にでも扱うことができる。だが、他ならぬその性質ゆえに、自分の思いどおり使いこなすことの困難さを感じずにはいられない。表現したい事柄が自身の心の内から湧き出る真実の想いであるとき、その想いを伝える手段として、言葉はむしろ邪魔なだけになる場合が多い。言葉では伝えられない想いというのは、たしかに存在するのだ。

 その深い声、低く力強い声。おそらくこの声を聞くのが好きなのは、そもそも発せられる言葉の意味がわからないからだろう、だから傷つけられる心配がなく、聞きたくもないことを言われることも、つらい質問をされることも、無理やり過去から引きずり出され、血まみれの遺体のように放り出されるという心配もないからだろう。

 本書『リンさんの小さな子』に登場するリンさんは、遠い異国からやってきた老人である。彼の故郷ではひっきりなしに戦争がつづいており、彼の息子とその妻だった女性はその戦争に巻き込まれて死んでしまった。唯一生き残ったのは、まだ生まれてまもない孫のサン・ディウだけ。リンさんはこの幼子を安全に育てられる場所をもとめて、故郷を永遠に去る決意をしてこの国に逃れてきたのだ。

 本書のなかにおいて、リンさんの故郷である国や、彼が避難してきた先の国について、具体的な名称は明かされていない。ただ、リンさんが移住先ではじめて覚えた挨拶の言葉が「ボンジュール」であることから、彼がフランスのどこかにいるということがかろうじてわかる程度であるが、重要なのはその国がどこかということではなく、リンさんが、その過去につながるものについて、幼い孫娘以外のすべてを失ってこの国に来なければならなかったこと、そして新しくやってきた国において、彼自身につながるものが何ひとつない状況に置かれている、という点である。

 大きく、整然として、そして多くの人々に溢れる街――それは、リンさんの思い出のなかにある故郷の、自然の美しい小さな村との比較を考えても、彼にとってまったくなじみのない、冷たい場所でしかない。リンさんと同じように国を抜け出した難民たちが暮らす仮の宿舎には、たしかに同じ言葉を話す同国人がいるが、幼子をかかえた頑なな老人の存在は、あまり良い印象をもたれていないことをリンさんは知っている。新しい国に来た彼の知る世界は、ほんとうに小さく、限られたものでしかない。その心細さ、自身のちっぽけさ、孤独の深さが、たとえば支給されるスープの味気なさや、難民の男たちが暇つぶしに行なっている博打といった描写のなかにもにじみ出ていて秀逸なのだが、何より注目すべきなのは、リンさんとバルクという名の男との邂逅シーンだ。といっても、リンさんとバルクさんとのつながりは何もない。国も言葉も違うふたりの赤の他人を結びつけたのは、何の変哲もない小さなベンチに座ったという、ただそれだけのことなのだが、その何気なさの裏にあるものは、読者が思っている以上に深い。

 幼子の健康のためにも、外に出て散歩をしたほうがいいと諭されて、リンさんは幼子を抱いて外に出る。だが、その異国の街で彼の知る場所はどこにもない。彼はけっきょく、宿舎を遠く離れることを恐れて同じ場所をぐるぐる回ることしかできない。それでも歩きつづければ疲労はたまる。たまらなくなって、そばにあったベンチに腰を下ろす。街の人々は、リンさんの前を忙しげに通り過ぎていく。ひっきりなしに車が走り抜ける通りの向こうに見えるのは、公園。だが、そんななかひとりの男が同じベンチに腰かける。ヘビースモーカーのバルクさんは、問わず語りに死んだ妻のことを話し続ける。彼にとって、このベンチと通りに見える公園は、特別な場所だということ――もちろん、リンさんに彼の話している言葉はまったくわからない。だが、国を失った男と妻を失った男が、偶然にも出会うことになったその小さなベンチは、その瞬間、彼らの心の拠り所としての大きな意味をもつようになる。

 バルクさんのおかげで、この見知らぬ国にも、それなりの顔があり、歩き方があり、重みがあり、疲れがあり、香りもあることがわかった。煙草の煙の香りも同様。太った男は、そうとは知らずに、そのすべてをリンさんに与えたのだ。

 リンさんにとってサン・ディウは最後の身内ではあるが、まだ言葉の話せない赤ん坊でしかなく、バルクさんとは言葉による意思の疎通ができず、バルクさんはリンさんの名前を彼の国の挨拶の言葉である「タオ・ライ」と勘違いしたままだ。だが、にもかかわらず、お互いの気持ちが通じ合っていく奇跡がそこにはある。ほんのわずかな言葉のなかに、ありったけの想いを込め、またその想いを受け取ろうとする意思が生まれる。そして、そうした人と人とのつながりが強調されればされるほど、リンさんが体験しなければならなかった故郷の戦争や、バルクさんが若い頃に駆り出された戦争、そしてそこで起こった無数の死について、思いをめぐらせずにはいられなくなる。本書に登場する人たちは、いずれも悲惨な死に彩られたなかにあって、それでもなお生きていこうとする命の灯火だ。その灯火の貴重さ、その命の重みは、だからこそ私たちの心を強く打つ。

 どれだけ多くの言葉を費やしても、伝えられないものがある。どれだけ多くの言葉を積み重ねても、分かり合えないときもある。だが、たとえ言葉がまったく通じなかったとしても、きちんと伝わっていく想いもある――不完全なコミュニケーションの道具である言葉を頼りに生きていかなければならない私たちにとって、本書が示唆する可能性は、あるいは私たちが考えているよりもずっと大切なことなのかもしれない。(2007.07.29)

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