【情報センター出版局】
『天使がくれた戦う心(チャイ)』

会津泰成著 



 強い人へのあこがれというものは、誰しもが一度は心に抱く感情のひとつである。私自身の例でいえば、たとえば『ファイアボール・ブルース』に登場する火渡抄子や、『神々の山嶺』に登場する羽生丈二や、『19分25秒』に登場する片足の競歩選手といった人物の強さに、心惹かれるものを感じずにはいられない。彼らはそれぞれ女子プロレスや山岳、競歩の分野では、他の追随をゆるさない突出した強さを誇っている人たちであるが、そんな彼らの存在に惹かれてしまうのは、彼らがその道の一流選手であるからとか、相手を打ち負かす肉体的な強さをもっているからとかいった理由ではない。そもそも上に挙げた者たちは、純粋な意味での「選手」ですらないし、またどれだけ肉体的な強さをもっていたとしても、ただそれだけの理由で人は人に惹かれたりはしない。
 誰もが彼らのように、プロレスや山岳や競歩の世界で突出した強さを持てるわけではない。もちろん、生まれついての才能や身体的特徴も影響するだろう。だが彼らとて、何の苦労も努力もなくその道を極めたわけではない。私がそうした人たちに惹かれるのは、なにより彼らをその道の頂点にまで持ち上げた強靭な精神力――何があってもけっして折れることなく、不屈の闘志を燃やしつづけることができる心の強さなのだ。

 本書『天使がくれた戦う心(チャイ)』は、タイから出稼ぎにやってきた元ムエタイ戦士と、キックボクシングジムに通う18歳の少年との心の交流を書いたノンフィクションである。ヌンサヤームは、タイで10万人いるといわれるムエタイ戦士のなかで、過去二度も頂点を極めたことのある、超一流の元ムエタイチャンピオンで、日本へはトレーナーとしてやってきていた。いつも人懐っこい笑顔を絶やさず、誰にでも親切にコーチしてくれるが、いざ試合となると、驚異的な強さで対戦相手をマットに沈めるだけの実力を見せつけ、練習生の誰からも愛される存在だった。いっぽうの内田は、高校にも行かずにジムへ通っている18歳の少年だが、喋ることが苦手で練習生のなかでもどこか浮いており、試合でもまだ一度も勝ったことがない、という状態だった。

 本書はおもに、この内田という少年が書いた作文をもとに、著者自身もキックボクシングジムに通いながら取材と執筆をつづけてきた成果として生まれた作品である。当然のことながら、本書の中心となるのは、内田の心の成長だと考えるのが普通だろう。それはけっして間違いではない。じっさい、何をやっても長続きしない、自身の内にある弱い心を自覚しながらも、どうしても変わることができずにいる内田が、自分にはない強さをもつ元ムエタイ戦士のヌンサヤームに並々ならぬ――それこそ、ヌンサヤームの後を追って単身タイへと渡ってしまうほどの――憧れと尊敬の念をいだくことになるのに、それほど時間はかからなかった。はたして、ヌンサヤームとの交流を通じて、内田は何を学び取ることになるのか、そして彼は、試合で夢の一勝を勝ち取ることができるのか――本書のタイトルである『天使がくれた戦う心(チャイ)』の「天使」とは、ヌンサヤームの満面の笑みを指しているのだが、本書の著者は内田の成長を描くと同時に、ヌンサヤームの事情についても触れることを忘れない。

 本書のなかで、ヌンサヤームはよく「マイペンライ」という言葉を使う。これは彼だけでなくタイ人の大半が口にするもので、「大丈夫」とか「問題ない」とかいう意味をもつ。いかにも楽観的なタイ人気質を象徴する言葉であるが、幼い頃から良心や家族のために、まさに命懸けで戦ってきた経験をもつヌンサヤームは、ムエタイを引退したのちも、相変わらず家族に頼られつづけ、けっして「マイペンライ」と笑って過ごしていられる状態にはなかった。彼は故国では元ムエタイチャンピオンとしての肩書き、そして多くのタイ人たちにとって「黄金の国」である日本帰りの男としての肩書きを身にまといつづけなければならない運命にあった。

 幼い頃からお金を稼ぐことだけを生きがいにしてきたヌンサヤームにとって日本で過ごした日々は、ちょっとくさい言い方をすれば初めて体験した「青春」と呼べるような時間だったのかもしれない。

 日本はけっして「黄金の国」ではない――そのことを身にしみて知ったはずのヌンサヤームが、一度帰国したのち、ふたたび日本にやってきたという事実について、著者はたんに金を稼ぐためではなく、彼自身がいだく夢の実現のためでもある、と本書で述べている。その夢は、彼にとっての「青春」だった日本で見つけたものであり、そこにはキックボクシングジムでの経験、とくに内田との心の交流が強く影響していたと言える。どんなにみっともなく、試合に負けつづけて馬鹿にされても、そんな自分を何のためらいもなくさらけ出すことのできる内田の姿に、ヌンサヤームもまた、内田のなかに自身にないものを見出していたのだ。そしてそれは、ヌンサヤームだけでなく、あえて内田というパッとしない練習生を中心に本書を書き上げた著者自身にもあてはまることである。

 火渡抄子も羽生丈二も、片足の競歩選手も、切なくなるような孤高を保って生きていた。彼らはけっして誰かを頼ったりせず、いざというときは自分の力のみを信じ、自分の力で頑張らなければならないことを知っていた。自分の力を信じる、信じつづけるのは、けっしてやさしいことではない。だが、そればかりは自分で育てていくしかないものでもある。人としての強さ――強く生きるとはどういうことなのか、その答えが本書のなかにはある。(2003.10.19)

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