【新潮社】
『破壊者ベンの誕生』

ドリス・レッシング著/上田和夫訳 

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 たとえば、電車やバスのなかといった、大勢の不特定他者がひとところに集まっているような場所に、周囲の迷惑をかえりみず奇声を発しつづける人間がいると仮定して、そうした彼の存在を不愉快に思ってしまうのは、奇声を発するという彼の行為が、その場に対してあまりにも異質であると他者が感じとるからに他ならない。これが、あきらかに知り合いとわかるふたりが声高に話をしているというのであれば、迷惑に思うことこそあれ、それほど奇異なものだと感じることはない。だが、あきらかにひとりと思われる者が、何の脈略もなく奇声を発するというのは、私たちの理解を超える出来事だ。

 およそ私たちにとって、わけのわからないという事態ほど怖ろしいものはない。私たちは他者と接するさい、まずは自分が「人間」であるという認識をもち、そこから他の人間を「自分とよく似た者」として認識するというプロセスを踏み、そのうえでコミュニケーションをはかろうとする。ここでいう「人間」とは、辞書的な人間一般という意味ではなく、あくまで自身の主観にもとづく「自分とよく似た者」という意味合いを含んでいる。それゆえに、人間は犬や猫といった、あきらかに「人間」ではない動物と基本的にコミュニケーションをとろうとはしないし、そもそもそんなことを意識すらしない。上述の例でいえば、見た目は人間と同じなのに、主観としての「人間」からかけ離れた行為――奇声を発するという行為――が、私を含めた大勢の不特定他者に大きな違和感をいだかせる要因となっている。

 人の姿をとっているのに、「人間」としての行為をともなっていない――この矛盾は、私たちがあたり前のように思っている「人間」という認識を、大きく揺るがせる要素だ。本書『破壊者ベンの誕生』は、そうした私たちの認識の常識に対して、深く切り込んでくるものがたしかにある。

 だが、いったい、彼は自分が障害者であることを知っていたのか? はたして、彼は障害者か? 彼は、何者なのか?

 たいして行きたくもなかったオフィス・パーティで出会ったふたり、ハリエットとデイヴィッドは、一九六〇年代を象徴する強欲で利己的な時代精神をもつ若者としては珍しく、貞操観念が強く、なにより幸せな家庭生活を夢みているということで、お互いにこれ以上はないパートナーとめぐりあったという確信をいだいた。惹かれあうように結婚したふたりは、大勢の子どもをこしらえるつもりで、ロンドン郊外にヴィクトリア風の大きな家を見つけて購入し、そしてじっさいに次々と子どもを産んでいくのだが、ふたりの五番目の子どもであるベンについては、彼がハリエットの胎内にいるときから恐ろしい力で暴れまわり、まったく可愛くない容姿をもって生まれてからも、まるで獣のような唸り声をあげたり、狂暴な振る舞いで相手を傷つけたりと、およそこれまでの子どもたちとはかけ離れた存在として、ふたりの築いてきた家庭をおびやかすことになる。

 上述の引用文は、そんなベンの異質な言動を怖れ、理解できずにいるハリエットが発せずにはいられなかった心の声であるが、彼女の「障害者」というベンへの判断は、厳密には正しくない。ベンには身体的な障害は見られないどころか、むしろ一般の子どもを凌駕するような勢いで成長しているし、医者もベンに対して、どこかに障害があるとは断定できずにいる。だが、西洋の醜い鬼であるゴブリンやトロールのようだと言われ、接する人たちにほぼ例外なく嫌悪感をいだかせるベンは、人々の主観としてもっている「人間」の枠からはみ出た存在として認識され、それはしばしば恐怖という感情をともなって相手の心を戦慄させる。

 母親のハリエットにもけっしてなつこうとせず、それどころかいつも異常に興奮し、敵意に満ちた視線を向けてくるように思えるベン―― 一時期はデイヴィッドとその親戚たちの総意で隔離施設に預けられるものの、ハリエットが自らの手で連れ戻してしまったベンは、それを契機に自身の家庭の破壊者としての役割を担うことになるのだが、そんな彼がいったい何を考え、どのような意思をもっているのかは、本書のなかにはいっさい書かれていない。そういう意味では、常にベンが何を考えているのかわからないと繰り返しているハリエットの視点を、読者も共有していることになるのだが、およそ本書ほど、その視点の置き方によって物語の全体像やテーマ性が変化していく作品も珍しい。

 ベンの存在は大きな威圧感をともない、結果としてハリエットの家族をバラバラにしてしまうことになるのだが、それはベン自身がそう望んだわけではないし、そもそも赤ん坊である彼にそんな意思などあるはずもないことだ。だが、理屈とは関係なく、ベンは誰からも嫌われ、恐れをいだかせずにはいられない異分子であり、家族の幸せを乱す邪魔者でもある。しかしながら、一度でもベンの立場で本書を読み返してみるなら、彼の周囲にいる人たちの非人道的で身勝手な振る舞いに戦慄せずにはいられなくなる。そしてその振る舞いの根底にあるのが、ベンを自分たちと同じ人間だと認めたくない、という思いであるが、そうした思いでさえも、彼らが意識してそうしているというよりは、むしろどんなふうにも定義することのできないベンの存在に対する、なかば本能的な恐怖から来ているものであり、だからこそ本書を読む私たちもまた、立つべき場所を定めることができないまま、ベンと対峙しなければならなくなる。

 父親のデイヴィッドは、あえてベンを忘れ去ろうとした。兄弟たちは、露骨にベンを「ぼくたちの、本当の仲間じゃない」と言い張った。そして母親のハリエットは、他の誰かがベンが何者なのかを定義してくれることを望んだ。だが、どんな医者やカウンセラーも、ベンが人間の埒外にいると感じているにもかかわらず、そうはっきりと宣言することを拒み、ただ彼から目を背けるばかりである。

 言ってみれば、ベンは私たちが人間社会のなかで生きていくうえで、あえて目をそらし、見ないようにしているあらゆるものの象徴である。そしてそれは、道徳や論理といったものではどうにもできない人間の底知れない醜さであり、弱さでもある。本書の原題は「The Fifth Child」であるが、それに『破壊者ベンの誕生』と命名した編集部は、まさに本書の本質をついたと言うことができる。はたして彼は、何に対する破壊者であったのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2012.04.22)

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