【白水社】
『フェルマータ』

ニコルソン・ベイカー著/岸本佐知子訳 



 1年は365日であり、1日は24時間であり、1時間は60分である――それは、けっして変えることのできない時の必然だ。その時間配分を多いと感じるか少ないと感じるかは、人によってそれぞれ異なってくるのだろうが、私たちの日々の生活のなかで、けっして融通の利かないこの時間の流れについて、もうちょっと何とかならないものかと思うことは多い。たとえば、期限が間近に迫っている課題がちっとも進んでいないとき、たとえば、愛しのあの子とのデートがもうすぐ終わってしまうとき、あるいは、ただの定期報告と化した不毛な会議が長引いているようなとき、私たちはもっと時間を引きのばすことができればとか、時間そのものを早送りすることができたら、と思わずにはいられない。そう、ビデオデッキのリモコンのように、時間を自由自在に操ることができたら、と。

 本書『フェルマータ』に登場する語り手のアーノルド・ストラインは、停止した時間のなかに入り込むことができる能力をもっている。彼自身が「フェルマータ」、あるいは<襞>と呼ぶこの「力」は、彼の意思でもって世界の時間を一時停止させ、そのなかを彼だけが好きなだけ動きまわることができるというもので、それは三十五歳にして未婚、派遣社員として口述記録のタイピングをするという、いささか冴えない仕事をしている彼にとってはあまりに身に余る「力」であるが、本書を読み終えたときに私がふと思ったのは、アーノルドにとってのこの時間停止の能力、「フェルマータ」の力は、はたしてどのようなものであったのか、ということである。

 時間そのものを自由に止めたり動かしたりできる、という力は、考えようによっては世界最強の力でもある。どんなに屈強な兵士も、どんなに偉大な頭脳の持ち主も、時間を止められてしまえば無力である。その気になればどんな犯罪でも、けっして捕まる心配もなく成し遂げることのできる「フェルマータ」の力であるが、まずこの力は、常にアーノルドの支配下にあるわけではない。ある日天啓のように使えるようになったかと思うと、別の日を境に何年も力を失ってしまい、また別のスイッチ――指を鳴らしたり、メガネを押し上げたり、爪を切ったりといった、時間を止めるためのつながりを示唆する天啓を探し求めなければならなくなる。そして、彼にとっての「フェルマータ」の力は、どうやら女の子の裸を見たい、というごく個人的欲求と強く結びついているらしく、手にした時間停止の能力を、おもに気に入った女の子の服を脱がして思う存分観賞したり、胸やお尻を触ったりといったことのために用いているのだ。

 時間を止めるという限りなく反則的な能力と、それを女の子の裸を見るために使うという、そのギャップゆえに、本書には終始ユーモラスな雰囲気がともなうことになるのだが、ここでひとつ重要な意味を帯びてくるのは、女性の裸というものが、この世のすべての男性にとってはおおいなる神秘であると同時に、女性にとってはごく限られた人にしか知られることの許されない大きな秘密だという点である。あたり前のことであるが、異性の前で自身の裸体をさらすことのできる女性は、けっして多くはない。それは秘密であるがゆえに羞恥心を引き起こすものであり、だからこそ人は普段、服を着て生活しているのだが、逆に言うなら、裸体というのはその人の隠された本質だという見方もできる。

 アーノルドの「フェルマータ」能力は、その女性の秘密を、その当人にさえ知られることなく、手に入れることができる。だが、同時にその秘密を彼は誰とも共有することができない。共有するためには、時間停止の力のことを打ち明けるほかにない。だが、その力をけっして良いとは言えない性癖の充足のために使っている以上、それはある意味で彼の身の破滅につながりかねないものだ。それゆえに、アーノルドの「フェルマータ」能力に対する感情は、一方ではこのうえなく愛おしい自分だけの能力として渇望していながら、他方ではこの圧倒的に自分を孤独にしてしまう能力に対して、どこか倦み疲れているようなところが見え隠れする。

 自分がたった今してきたことをジョイスは何ひとつ知らないのだ、自分があのマットレス・パッドのことまで知っているなどとは夢にも思わないのだ――(中略)――不法に部屋に忍び込んだのがいいとか悪いとかいうことではなかった。それよりも、ジョイスの日常をより具体的に知ったことで、彼女をデートに誘うことが、たやすくなるどころか、逆に難しくなってしまったことのほうが身にこたえた。

 こうして本書を評していると、まるでアーノルドが変態めいた性格をしているように思われるかもしれないが――そしてじっさい、彼が「フェルマータ」能力を用いてやっていることは、ともすると偏執狂的なところがあると言わざるを得ないのだが――基本的に時間停止をおこなう前と後とでは何ひとつ改変を加えないものだ。殺人はおろか、物を盗むといった犯罪さえしようとしないアーノルドの、たとえば脱がした服を逐一元通りに着せていくという行動は、ある意味で自身の力を自分のものだけにしておきたいという欲求のもとにある。だが、本書を読み進めていくとわかるのだが、彼は次第に、時間を停止して自身の行動の痕跡を残さないようにするいっぽうで、なんとか自分の気に入った女の子に、自分という存在の欠片を残しておきたいという二律背反に突き動かされるようになる。

 むろん、そうした難しいことを考えずとも、アーノルドが自作のポルノ小説を女の子に読ませようと四苦八苦したり、衝動的に買ってしまったペニス吸引機やバイブレーターの使い道に途方に暮れたり、さながらサブリミナル効果のごとく、エッチな写真を女の子の視界にコンマ単位でちらつかせたりといった、ある意味で涙ぐましい、そしてどこか滑稽な努力をはらっているさまを純粋に楽しむことができる本書であるが、そもそも本書がアーノルドの自伝という形で提示されているという構成を考えたとき、彼のなかにあるこのうえない孤独の深さが、逆に印象深いものとして読者の心を揺さぶることになる。自分は、女の子の秘密を覗き見することができる。だが、自分の秘密は誰も見てはくれない。自分の「フェルマータ」能力のことも、誰も知らない。それははたして、この世界でたしかに生きていると言えるのか。

 本書のタイトルである「フェルマータ」とは、音楽記号のひとつで「できるだけ長く延ばす」という意味。世界でただひとり、他人とは違った時間の流れのなかで生きてきた男が、物語の最後にその「フェルマータ」能力に対してどのような決着をつけることになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.03.21)

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