【光文社】
『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』

トーマス・マン著/岸美光訳 



 まず最初に断っておかなければならないのは、今回紹介する本書『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』が、作品としてはあきらかにその後の展開があってしかるべき構成であるにもかかわらず、その途中で断絶するような形で物語が打ち切られている、という点である。そして本書のタイトルに冠されている「詐欺師」という呼称について、語り手の告白の範囲内ではまだ充分に発揮されないまま終わってしまっている。おそらく、本書以降の展開のなかにこそ「詐欺師」の「詐欺師」たる所以がいかんなく語られるのであろうという期待はあるのだが、少なくとも本書のなかにそれを望むことはできない。なぜなら、本書は著者の絶筆であるからだ。

 だが、同時に本書が未完で終わっているからこそ、タイトルにある「詐欺師」の意味合いについて考えさせられるところがあるのもたしかである。四十歳になった語り手が、自身の過去を回想するという形で展開する本書のなかで、語り手がさりげなく言及する刑務所暮らしの過去――そのいきさつが本書のなかで語られることはないが、彼が何らかの犯罪に手を染めたというのであれば、それは詐欺以外にはありえないはずだ。だからこそ私は、本書のなかで語られることのない「詐欺師」としての行為に思いを寄せるのだが、すべては個人的な憶測でしかない。

 はたして、ここで言う「詐欺師」とは、文字どおり人を故意に騙して利益を得る悪人のことを指すのだろうか。あるいは、別の意味合いを含んだものなのか。少なくとも本書に出てくる語り手を見るかぎり、半分は真実だと言える。幼少のころから人を魅了する美貌と、さわやかな弁舌、そして何より、自分の知らない身分や職業、言葉などを巧みに模倣し、いかにもそれらしく見せる才能に恵まれた語り手は、その技能をときには学校をズル休みするための仮病を装うために、またあるときは兵役を免れるための癲癇を演じるために活用する。それは純粋に個人的な欲望のためであり、また自分がそれをするだけの特別な存在だという、ある種の尊大な態度も持ちあわせているわけであるが、重要なのは、そうした考えの根本にあるのが、自身の模倣癖――自分ではない何者かを演じることを、自身のアイデンティティの拠り所としている部分があるということである。

 クルルの告白のなかで、彼は自身の瞳孔すら自身の意思でコントロールできると豪語するが、それが真実かどうかはともかくとして、少なくとも模倣のためであれば不随意筋だって意思の力で動かしてみせる、という決意の並々ならぬ強さは見てとれる。裕福な家庭に生まれたものの、事業の失敗によって父はピストル自殺、代父のつてでフランスの一流ホテルのエレベーターボーイとして働くことになった語り手は、しかしそのホテルをよく利用する寡婦の寵愛を受けるなどして、その才能を活用してしたたかに世の中を渡っていく。そうして築いたちょっとした財産を、「高貴な身分」を装うための資金として利用していたという彼の生きざまに目を向けたときに、金銭を稼ぐ、あるいは不当な手段で巻き上げるといった行為は、言ってみれば彼のもつ模倣の才能の副産物でしかないという意識が見てとれる。一介のエレベーターボーイという自分と、「高貴な身分」を装った自分という二重生活ぶりは、どちらか一方の自分が真実だということではなく、その境目を曖昧に――それも、自らの意思でもって曖昧にすることこそが目的だったと言うことができる。

 大事なのは、私の中で己を深く確信する本能が、人から提供された上に欠点だらけの現実に対し、反対の声を上げたということである。――(中略)――子供の頃、自分がカールという名前の十八歳の王子だという決心と共に目覚め、好きなだけ自由に、この純粋で魅力的な虚構を放さないでいた頃――それこそが本物だったのである。

 かつて、語り手が劇場で観た男優の、その舞台上での美しい姿と、楽屋でのあばただらけの姿とのあまりのギャップに、吐き気を催しながらも称賛せずにはいられなかったように、彼にとって演じること、装うことこそが本物であるという意識からすれば、エレベータボーイを「演じる」ことも、「高貴な身分」を「装う」ことも、等しく本物であったということになる。それは、「そうである」ことに重きを置かないということでもある。たとえば、「女である」というのは、生まれながらの性別によって必然的に決定してしまうことであるが、「女になる」、あるいは「女を演じる」ことは、そうなるための尽力を必要とする行為である。それゆえに、ときに男が女を装う姿が女以上に女らしく見えることがあるのだが、クルルにとって「女である」ことは本物ではなく、自らの意思で「女を演じる」ことで女になった姿こそが本物だということになる。

 そんなふうに考えたとき、語り手の存在は、必然的に「そうである」者たち、たとえば、代々「貴族」という身分にあぐらをかく者たちへのアンチテーゼであると同時に、「貴族」以外の何ものにもなれない者たちの不自由さを、軽やかに超えていく者ということになる。アルマンという名のエレベーターボーイであり、また身分を交換して世界旅行をすることになった侯爵でもある語り手――しかし、彼がその本名であるフェーリクス・クルルと名乗るとき、必然的に「そうである」存在である彼は、はたして本物であると言えるのか。もしそうでないとすれば、「フェーリクス・クルル」という名を持つ者にこそ「詐欺師」という呼称がふさわしいことにならないか。

 その魅力的な容姿で、その巧みで爽やかな弁舌で、自分以外の誰か「になる」ことを続ける語り手フェーリクス・クルルの模倣の能力が、はたして彼をどのような数奇な運命に導いていくことになるのか、その全容を追いかけることができないのが、かえすがえすも残念でならない。(2012.02.03)

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