【東京創元社】
『フィーヴァードリーム』

ジョージ・R・R・マーティン著/増田まもる訳 



 自分と相手との関係、その結びつきについて考えるとき、そこにどれだけの信頼関係が築けているのかという点について、人は常に悩まされてきたし、それはこれからも大きな問題としてありつづけるはずである。じっさい、世のなかに発表されている小説の大半は、人と人との関係について書かれたものであるし、登場人物たちはその関係のありようや変化に一喜一憂する。そしてそれは、自分ひとりで完結するようなことであればともかく、多くの人の力を必要とするような大きなことを成そうとするときに、よりいっそう重要なものとして当事者にのしかかってくるものでもある。

 人は個人個人ではたいした力をもっていなくても、それらをいくつも集めることで、それまで不可能と思われてきた大きなことを実現してきた生き物である。たとえ自分ひとりでは困難なことでも、誰かの力を借りて協力すれば困難でなくなることを、私たちはその弱さゆえに知っている。だが、人と人とをより強く結びつけ、個々の力をひとつの方向に向かわせるには、それなりの力がいる。その力とは、あるいは暴力であるかもしれないし、あるいは権力であるかもしれない。あるいは金銭による契約という力もあるだろう。だが、もしそこに信頼という形の結びつきを見出すことができるなら、それはこのうえなく大きな力となって成すべきことに向かって突き進んでいくことになる。なぜなら、そこには他ならぬ個人の資質が大きく関係してくるからだ。

 自分の存在が、他の誰かと代替可能であることが前提にあるような関係性は、まさにその代替可能性ゆえに長続きしない。信頼関係というのは、特定の誰かではなく、まぎれもない個人に対して結ばれるものであり、それは相手から自分という個が認められたということを意味する。今回紹介する本書『フィーヴァードリーム』を貫くのは、まさにその「信頼」という概念だと言うことができる。

「わしのいいたいことがわかっただろう? こんなのは信頼じゃない。わしらはもうこの船のパートナーじゃない。くそったれなほど対等じゃないからだ。――(中略)――こんな関係はパートナーではなく、奴隷にすぎん。」

 南北戦争時代のアメリカ南部、ミシシッピ川で蒸気船の定期航路会社を経営していたアブナー・マーシュは、ある紳士から手紙を受け取っていた。彼の名はジョシュア・アントン・ヨーク。マーシュの会社の株の半分を買い取り、共同経営者として蒸気船をもつことを望んでいるという内容であったが、それはマーシュをひどく困惑させる申し出だった。なぜなら、彼の会社「フィーヴァー川汽船会社」は、持ち船六隻のうちの五隻を事故などの要因で失い、事実上破産状態にあったからだ。セントルイスのホテルでの会見の席で、マーシュはその事実を正直に告げたが、まだ若く見える、不思議な雰囲気を身にまとったその紳士は、会社の経営状態を知ってなお、自身の申し出に変わりがないことを告げる。

 あまりに話のうますぎるこの出資話にどこかきな臭いものを感じ取ったマーシュではあったが、ヨークの新しい蒸気船建造の話を聞いた彼は、その申し出を受け入れる決意をする。現在、アメリカでもっとも速い蒸気船と言われるエクリプス号――この船よりも速い蒸気船をもち、エクリプス号を打ち負かすという壮大な夢をもつ彼は、まさに根っからの「川の男」だったのだ。だが同時に、それが彼にとって長くつづく受難のはじまりであることを、そのときのマーシュは知る由もなかった……。

 物語の前半は、おもにこの正体不明の紳士であるヨークが何者なのかという謎が中心になって進んでいく。昼間はけっして表に出てこず、夜になって活動をするという生活習慣、定期航路のスケジュールをあまりに無視したその行動、そしてヨークが友人と称して乗船させた、ヨークと同じような生活習慣の人々――とかく隠し事が多く、その言動の大半が謎だらけというこの共同出資者にマーシュはしだいに不満と疑念を募らせていくことになる。じつを言えば、本書にはこのふたりを主体とする物語の流れとはべつに、ニューオーリンズの農園主であるダモン・ジュリアンとその手下とも言うべき立場のサワー・ビリー・ティプトンを主体とする物語の流れがあり、その非常に特徴的な習性がヨークのそれと酷似しているという伏線は、読者にヨークたちがいわゆる「吸血鬼」であることを容易にさとらせることになるのだが、マーシュにとって重要なのは、ヨークが何者であるかということ以前に、彼と自分が汽船会社の共同経営者として、また「川の男」として対等な立場にあるという一点に集約されている。その思いを集約しているのが、上述の引用にあるマーシュのセリフである。

 マーシュは荒くれ者の多い蒸気船乗りのなかでも、とくに典型的な「川の男」を象徴する登場人物であり、ひしゃげた鼻といぼだらけの顔、樽のような体型をもつ醜い男という位置づけにある。それは、銀髪と不健康なくらいに白い肌をもつ端整な容姿のヨークとは対極の存在として、その違いを際立たせる効果があるわけだが、このふたり――そもそも種としてのあり方すら異なるマーシュとヨークの関係が、どのようにしてお互いの信頼を勝ち得ることになるのか、というテーマを描くための演出として生きてくる。また本書の舞台となる十九世紀半ばの南アメリカでは、まだ奴隷制度が生きていた時代であり、本書のなかでも黒人奴隷たちが物のように売買されるシーンがよく出てくるが、これはそのまま吸血鬼の人間に対する差別意識の裏返しにもなっている。

 自我というものを獲得した私たちは、それだからこそ自分以外の他者について、その出身や見た目ではなく、あくまでその人の個人の資質をもって他人を判断すべきであるし、そうでなければ自分の人間性そのものが危うくなってしまう。だが同時に、私たちはいともたやすく相手を何らかのラベルでひとくくりにし、その貼られたラベルをもって相手の資質を評価するという安易さに流されてしまう。マーシュとヨークのあいだに横たわっているのは、私たち人間が今もなお克服できず、さまざまな争いの火種となっているものなのだ。そしてこのふたりが少しずつ築いていく「信頼」とは真逆の関係で結びついているダモン・ジュリアンとサワー・ビリーのふたりは、それゆえにマーシュとヨークが克服すべき最大の敵として物語をより盛り上げることになる。同じように吸血鬼と人間のペアでありながら、その重きを置く部分が決定的に異なる二組の関係性――物語後半のメインとなるのは、まさにこのふたつの関係性の対立の行き着く先に何があるのか、という点である。

 マーシュとヨークが手に入れた新しい蒸気船につけられた名前は「フィーヴァードリーム号」であり、それが本書のタイトルの由来にもなっている。熱病におかされた夢――それは、最初にその名を聞いたヨークが言うように、伝染病のごとく不吉なものを連想させるものであるし、事実彼らはその後、多くの困難と流血沙汰に巻き込まれることになる。まるで、私たち人類がこれまで何度も繰り返してきた、理想と現実との戦いの縮図であるかのような彼らの戦いは、最後にどのような結末をもたらすことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.02.22)

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