【東京創元社】
『英雄たちの朝』
−ファージングT−

ジョー・ウォルトン著/茂木健訳 



 近親相姦がタブー視されているのは、それが種としての多様性を制限し、未知の病気の蔓延などの危機的状況のさい、種の全滅をまねく可能性を本能的に理解しているからだと言われている。これがどれだけ信憑性のある説なのかは、じつのところよくわからないところもあるのだが、たとえば会社経営、あるいはもっとスケールの大きい国家経営ということを考えたとき、そこに多種雑多な考えをもつ人々がかかわっているほうが、会社あるいは国家の存続という点を考えたときに有利であることは、理屈として納得のいくものがある。もし誰もが似たような価値観のもと、似たような考え方しかできなかったとしたら、それらの方法では対処できない事態に遭遇したときに、文字どおり身動きがとれなくなってしまう。

 とはいうものの、人間というのはえてして自分と似た価値観や境遇をもつ他者と結びつき、そこで安定したいという欲求があることも事実であるし、そのほうがより早く物事が決定し、目標に向けて加速しやすくもある。じっさい、会社というのは利益をあげることが目的としてあるわけであって、「いや、それだけがすべてじゃない」などという価値観をもつ人が会社内で圧倒的多数を占めていたとしたら、その会社は早晩潰れてしまうに違いない。重要なのは、ある集団が極端に歪んだ方向へと突き進んでいこうとするときに、そのことを疑問視し、抑制するような別の価値観が作用する余地を残しておけるかどうか、ということに尽きる。

 もし世界が、畑の真ん中を通る花盛りの細道だとして、まわりの畑が見わたす限り牛馬の排泄物の海だったなら、誰がそんな道を歩きたいと思う? 本人たちがどれだけ自惚れていようと、この世界で生きている人間は、かれらだけではない。

 上記引用文は、本書『英雄たちの朝』において、一人称の語り手として登場するルーシー・カーンが、自身の親族らが属する政治派閥「ファージング・セット」の特権意識、選民思想的な性質に対する嫌悪感をあらわにしたものだ。各分野における政界の有力者であり、高名な貴族でもある一団によってゆるやかに連携している「ファージング・セット」は今、イギリス国家権力の中枢にあった。第二次世界大戦において、急速にその勢力をヨーロッパに広げているナチスドイツとの長い膠着状態の末、彼らと講和条約を結ぶことで「名誉ある和平」を導いた立役者となったのが、他ならぬ「ファージング・セット」の一団であり、その選択は概ね正しかったという世間の評価も得ていた。

 第三帝国のよき友人として、ナチスドイツと手を結ぶことを選んだイギリス――この、私たちが知る歴史とは異なった世界を舞台とする本書において、こうした背景を知っておくことは重要ではあるが、本書を読み進めていけば、おのずとそうした情報は見えてくるような構成がなされており、けっしてそれが第一義というわけではない。むしろ大切なのは、ある方向性に凝り固まっている集団が、国家権力というパワーを手にすることによって、国民の意思を自分たちの掲げる方向性へと統一させていこうとする流れであり、またその流れによって少なからず人生を翻弄されてしまう人々の姿にこそある。とくに、その「翻弄されていく人々」のなかにルーシー・カーンとピーター・カーマイケルというふたりの人物が含まれてしまうことによって、彼らを取り巻く国の状況が少しずつ、しかし確実に悪い方向へと傾いてきているという薄気味悪さがいや増すことになる。

「ファージング・セット」への嫌悪感を募らせているルーシーではあるが、じつは彼女もまたれっきとした「ファージング・セット」の一員であり、じっさい彼女の母が急なスケジュールで催すことになったパーティの客にも、ルーシーの親戚たちが数多く呼ばれている。本来であれば、母親に象徴される「ファージング・セット」側の人間として成長するはずだった彼女は、しかし同時に「ファージング・セット」というアイデンティティに疑問を呈する人物としての役割も負っている。そしてその役割は、ユダヤ人の銀行家であるデイヴィッドと結婚し、カーンの姓を名乗る立場となることで成立している。

 いっぽうのピーター・カーマイケルは、スコットランドヤードの警部補であり、「ファージング・セット」のパーティーで起こった殺人事件の捜査を指揮する人物として本書に登場する。被害者は下院議員のジェイムズ・サーキー、「名誉ある和平」を象徴する高潔な人物として知られる政治家であったが、その死体にナイフで縫い付けられていたユダヤの星――大陸のユダヤ人が着用を義務づけられている星型の布をはじめ、捜査が進めば進むほど、犯人がデイヴィッドであることを匂わせるような情報が出てくるという事態に直面することになる。

 ルーシーにしろ、カーマイケルにしろ、デイヴィッドが犯人であるとは考えていない。あるいは容疑者から外すことはできないが、犯行の動機などを考慮したときに、犯人である可能性は低いものと考えている。ふたりの思考はまったく別のベクトルをもつものであるが、いずれもデイヴィッドを自分と同じひとりの人間として想像するだけの思慮をもっているという点で一致している。だが、物語はたんなる犯人探しのミステリーというよりは、きわめて政治的な陰謀を思わせるような流れへと動いていくことになる。そしてそこにあるのは、「ユダヤ人だから」という理由で思考を停止し、そこから先へと想像力をはたらかせることを拒否するかのような世間の雰囲気だ。

 言うなれば本書は、こうした言葉で説明するのが難しい世の中の雰囲気――個人の意思を無自覚に捻じ曲げることを強制するかのような、どこか圧迫感のある雰囲気を描くために書かれたものであるし、その雰囲気を生み出すことにこのうえなく成功した作品でもある。

「イングランド人の偽善性は、素晴らしいことかもしれないね。第三帝国の連中は、かれらが憎み蔑んでいる人びとを、強制収容所に入れたり殺したりしている。対してイングランドの人たちは、蔑んでいるそぶりすら見せようとしないじゃないか」

 本書のなかでデイヴィッドが語ったこの言葉は、良くも悪くもイングランド人らしさというものを的確に指摘したものである。偽善という言葉はけっして良い意味ではないが、それでもまだ「ましな方」だとユダヤ人に思わせるということが、彼らの置かれた厳しい立場を物語るものであるが、そのイングランド人らしさすら、次第にナチスドイツの闇に飲み込まれていく本書は、三部作の第一作目として、じゅうぶんな掴みを読者に残す作品だと言うことができる。(2012.05.27)

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