【中央公論新社】
『極北』

マーセル・セロー著/村上春樹訳 



 たとえば、私の子どものころには携帯電話という機器は今ほど普及しておらず、一般市民にとってのそれは存在しないも同然のものであったはずなのに、それがごくありふれたものとして日本の社会に浸透した今となっては、逆に携帯電話のない日常というものについて、想像することが困難になってきているという事実に驚くことがある。だが言うまでもなく、以前の私は「携帯電話のない世界」を、まぎれもない日常として受け入れ、生活してきたはずなのだ。

 それまで存在しなかったもの、あるいは存在しても、ごく稀なケースだった事物が、年月の経過とともに世間の常識として浸透していくという現象は、私たちの社会のなかではしばしば起こることではある。しかし、ここで問題となってくるのは、そうしていったん市民権を得てしまった事物は、その時点でその事物がそれまでたどってきた過去や起源といったものから切り離されてしまうということである。たとえば、生まれたときから携帯電話に慣れ親しんできた者たちにとって、携帯電話のない世界というのは、きっと異次元の世界のごとく不可解なものとして映るに違いない。彼らにとって携帯電話という事物は、それこそ世界の創世の時点からあたりまえのように存在してしかるべきものであり、その「常識」がこの先くつがえされるようなことなど想像の範囲から外れたこととして認識されるのだ。

 今回紹介する本書『極北』という作品において、私たち読者がまのあたりにするのは、私たちのなかで「常識」と化している多くの事物が崩壊してしまった世界である。語り手であるメイクピースは、今では廃墟となってしまったエヴァンジェリンという街の最後の住人として、かろうじて命をつなぐような生活をつづけているが、その冒頭においては性別すら判別できないような暮らしぶりであり、また生き残るために必要であれば、同じ人間に対しても躊躇なく銃の引き金を引くメイクピースの行動の原動力となっているものが、ただたんに命をつなぐという、きわめて生物的な生存欲だけでないことは、たとえば無人となった街をあくまで警官としての職務をもって巡回するといった秩序的な生活習慣からも見て取ることができる。

 結局のところ、私を街につなぎ止めているのはただひとつ、我が家の存在だった。私はそこに過去の生活の一部をとどめている。いつの日かそこに、母と父とチャーロとアンナが戻ってきてくれるのではないかと、儚い望みをつないでいるのだ。

 本書を読み進めていくと少しずつわかってくることであるが、そのタイトルにもあるように、メイクピースが住んでいる場所はロシアの極北に位置するシベリア地帯であり、かつて彼女の家族は国籍を捨て、文明社会に背を向ける形でこの極寒の地に移住してきたという経緯がある。やがて戦争などの国際情勢によって外の世界との連絡がとだえるが、ある意味で隔絶された土地のなかで、自給自足の生活をしていた彼らにとって、それはさほど重要なことではなかったし、むしろ望むところですらあったことが見えてくる。

 人がただ命をつなぐために平然と犯罪をおかす無法地帯――まともな人間に出くわすことはきわめて稀で、それどころか人類の文明社会を思わせるものが、わずかにその残骸を残すのみとなったその世界は、何か重大な災厄によってそれまで築き上げてきたあらゆる秩序が崩壊した結果として到来したものであることはわかるのだが、メイクピースという主観からは、その原因が何だったのかを見通すことができない。彼女にわかっているのは、ある日を境に難民たちが自分たちの土地に次々と押し寄せてくるようになったこと、そしてまさにそのために、保たれていた秩序が決定的に壊れてしまったという事実だけだ。だが、それまで文明化された世界にいたはずの者たちがこんな極北にまでやってくること自体、とんでもなくイレギュラーなことに間違いはない。

 人類の歴史そのものが終焉を迎えたかもしれないような何かが起こったという事実が積みあがるばかりで、その真相が何なのか、そしてこれから自分たちがどうなってしまうのかということについては誰も答えることができない――そのある種の薄気味悪さ、息の詰まるような緊張感については、奇しくも2011年3月に発生した東日本大震災と、その後の原発事故を経験した私たちにとっては、多少なりとも想像しやすいものだと言える。だがそれでも、メイクピースがリアルなまでに感じとらざるを得なかった感覚――もしかしたら、自分は絶滅した人間の最後のひとりであるかもしれないという絶望的なまでの思いは、想像するにはあまりにも重いものがある。そうしたものを考えたとき、彼女が物語のなかでとることになる、なかば無謀とも言うべき遍歴へと駆り立てるものの重要性が見えてくることになる。

 人は誰しも、自分が何かの終末に居合わせるであろうことを予期している。誰も予期していないのは、すべての終わりに居合わせることだ。

 母の自動ピアノや本といった、かつての文明のよすがとなるものを大切に保存し、自身の過去と強いつながりのある場にとどまりつづけるメイクピースにとって、それらの選択は文明が崩壊した世界のなかで、それでもなお人間としての尊厳を維持するためのものであり、彼女がほかならぬメイクピース・ハットフィールドであることを思い出すための錨でもあった。人と人との関係を築くことすらままならないこの世界のなかで、それでも彼女がそんな自身の場所から動くきっかけがあるとすれば、それはこの世のどこかに、かつてあった文明社会がまだ残されているかもしれない、というわずかな希望を見出したからに他ならない。そして、そんなメイクピースの行動は、理性的ではないかもしれないが、このうえなく人間臭いものでもある。だがその人間臭さが、ただ生きることに執着することがあたりまえとなった世界において、どれほど私たち読者を安心させるものであるかは、本書を読んて感じとってもらうほかにはない。

 今、私たちが享受している文明社会は有史以来、人類が少しずつその功績を積み重ねてきた結果である。だが、その文明社会のなかで生まれ育った私たちは、その状態が最初から用意されていたもの、あたり前のようにあってしかるべきであるというある種の偏見のなかで生きていると言ってもいい。本書はあくまでフィクションではあるが、その崩壊した世界の片鱗が――少なくとも、人間の築いた文明社会というものが、想像しているほど強固なものではないかもしれない、という思いは、あるいは3.11を体験した今の私たちにこそ必要な認識なのかもしれない。世界は変わった、だが、何がどう変わったのかが見えない世界に何を感じ、何を思うことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.01.12)

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