【早川書房】
『華氏451度』

レイ・ブラッドベリ著/宇野利泰訳 



 15世紀のグーテンベルクによる活版印刷の発明は、それまでほんの一部の特権階級――とくに聖職者たち――の占有物であった本を安く大量に生産し、一般大衆レベルにまで一気に普及させた、という点で、まさに大きな革命であったと言うことができるだろう。それはたんに、羊皮紙からパルプ紙へ、といった材質の変化や、写本という名の手作業から印刷機へ、といった作業工程の変化だけにとどまるものではなく、本がまぎれもない「知識」であった時代において、誰もが容易にその「知識」に触れることができるようになった、ということをも意味しており、そしてその点こそ、もっとも革命的であったのだ。

 人はいつか必ず死ぬ。それは、たとえどんな偉大な人物であってもけっして逃れることのできないさだめであり、だからこそ時の権力者たちは太古の昔から、永遠の命を求めたり、自分がこの世にたしかに生きたのだ、という証拠を、何らかの形で残そうと努めてきたりしたのだが、本のなかに先人たちの言葉を書き残すというのは、その人が生み出した思想や発見を封じ込めるということに等しい。そして私たちにとって、本を読むという行為は、ただ文字を追い、情報を得るということだけではない。本をとおしてはるかな過去へと時間を遡り、けっして会うことのできない人たちと対話をし、また同時に自分自身との対話を果たすことでもある。思えば、これほど凄いことが、他にあるだろうか。

 本書『華氏451度』のタイトルの意味は、「本のページに火がつき、燃えあがる温度」のこと。そう、この物語の世界では、ドストエフスキーやスタンダール、ディケンズといった世界的文学作品、あるいは聖書をはじめとした宗教関係の本や思想書、哲学書といったいっさいの本が、人類に悪い影響を与えるということで、読むことを禁じられているのである。主人公のガイ・モンターグは、焚書官として、これらの禁書を見つけ出し、焼き払うことを任務としている男であるが、そんな彼がやがて、本の中にある「何か」に心を奪われ、本を焼く側から本を守る側へと変わっていく過程を描いた本書において、本が担っている役割は相当に重要なものだ。

 完全な耐火建築となった家屋、「海の貝」と呼ばれる超小型ラジオと、壁一面に取り付けられた大型テレビが、人々に絶え間なく娯楽を提供するようになった世界――テレビや家庭用ゲーム機、あるいはテーマパークといった娯楽施設など、本以外の娯楽に事欠かず、本など読まなくても面白おかしく生きていくことのできる現代を風刺するかのような本書の世界では、人々はまるで家畜のように、何かをおかしいと感じたり、「なぜ」という疑問を発したりすることもなく、ただ与えられる娯楽に感覚を麻痺させて生きている。

 考える、という頭のはたらき――それはときに、非常にわずらわしいものであり、また不安や恐怖、苦痛といった感情とも結びつくものでもあるのだが、そうしたはたらきを放棄し、今が楽しければそれでいい、という刹那主義、快楽主義に支配されてしまった人間の世界がどうなってしまうのか、ひとつの恐ろしい結末が、本書には用意されている。

 去年一年で、あたしの友だちのうち、六人も射ち殺されたわ。そして、十人は自動車事故で死んでいるの。それであたしが、あの連中の身を心配すると、心配したからといって、あたしをきらうの。おかしなはなしね。

 モンターグが出会ったクラリスという少女がもたらしたのは、さまざまな知識だ。火事をあつかう役人の仕事(fireman)が、かつては火をつけることではなく、消すことであったと教え、モンターグに、今の生活がけっして幸福なわけではないと「考える」力を与えた彼女は、ある意味では、旧約聖書に登場する蛇――イヴに「知恵の実」を食べるようそそのかした蛇の役目を受け持っているようにも見える。
 年じゅう「海の貝」を耳につけているせいで、まったくといっていいほどコミュニケーションをとることのできない妻との生活が、幸福なのか不幸なのか。おそらく、本書を読む私たちであれば、即座に「不幸だ」と答えることができるだろうが、それは、私たちがそう答えることのできる判断材料を持っているからに他ならない。もし、この世界にそうした生活しかなかったとしたら、どうだろう。どんな家庭を覗いてみても、判で押したようにたったひとつの生活の形しか存在しなかったとき、自分の生活が幸福なのか不幸なのか、いったい誰に判断することができるだろう。

 クラリスと会話する、ということの不思議な充足感を知ってしまったモンターグにとって、彼女は果たして蛇だったのか? その後の彼の運命を考えたとき、あるいはそのとおりだったのかもしれない。だが、結果的にモンターグが叛逆することになったその社会が神ではなく、人間の巧妙な思想操作によって生み出された偽りの楽園でしかなく、知恵を手に入れてしまった人間が、いまだその罪から解放されることを許されていないことを示したクラリスの役割は、偽りだらけのこの世界における、唯一の真実を指し示す知恵――「生きた本」であると言うことができる。そしてこの「生きた本」というシンボルは、そのまま物語のラストにおいて、再びモンターグの前に姿を現わすことになる。

 本を焼きはらうこと、本を守ること――見方によっては滑稽でさえある本をめぐる攻防を書いた本書だが、大切なのは「本」という形ではなく、本のなかに封じ込められた知識であり、その知識を得た人間が、自分の頭で「考える」ということである。原罪とも言える「知恵」を忘れようとした人間に待っているのは、おおいなる破滅でしかない。そういう意味で、本書は風刺的である同時に、多分に神話的でもあると言える。焚書官としてのモンターグがもっている破壊の炎と、本書のラスト近くで彼が見出す、暗闇を照らし出す炎という象徴、それは、本がもたらす「知恵」のもつ両極面でもあるのだ。

 第一に大切なのは、われわれの知識が、ものの本質をつかむこと。第二には、それを消化するだけの閑暇をもつこと。そして第三には、最初の両者の相互作用から学びとったものに基礎をおいて、正しい行動に出ることにある。

 禁書を隠し持っていた元大学教授のフェイバーは、自分の生活に欠けていたものを本に求めようとしたモンターグに対して、こんなことを述べている。そこには、ただ本を読むことだけを奨励するのではなく、本を読んで得たものを、どのように自分のなかで生かしていくか、という、もっと踏み込んだ形の「読書」の姿がたしかにある。そしてそのことを、モンターグはその身をもって実践していくのである。

 本とは何なのか、読書とは何なのか――テレビという代物が、それを見る者に考える余裕も与えずに、ひとつの結論を強引に押しつけるものだとフェイバーは語ったが、毎日何百という新刊が流通していく今の出版業界も、溢れんばかりの情報の洪水を前に、読者にただ読むことを強制させているように思えて仕方がない。「本は文化」という文句は、グーテンベルクの時代にはたしかに真実であったのだろうが、その文句が今ではすっかり色褪せているように思えるのは、はたして私だけであろうか。そのことを真剣に考えたとき、本書はたんなるSFであることを越えて、本から得た知識の本質をつかみ、消化し、そこから学んだことを実行に移すという、本来あるべき「読書」の形を知らしめる「知恵」の書として、読者の前に立ち現われることになるだろう。(2002.04.25)

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