【新潮社】
『工場』

小山田浩子著 



 アメリカやヨーロッパ諸国が基本的に契約社会であるのは、そこがキリスト教圏であることと無関係ではない。なにせ男女が結婚するときでさえ、一神教である「神」の前で夫婦になることを契約する社会である。人や組織ではなく、唯一絶対の存在である「神」が審判官としての役割をはたすという宗教的歴史の積み重ねがあるからこそ、契約という行為は神聖なものとして社会に浸透していったと言うことができる。ゆえに、ある会社とそこに勤める社員とをつなぐものが第一に契約であることは、その社会に生きる者たちにとってはごくあたり前の感覚なのだろう。

 ひるがえって日本の会社と社員との関係に目を向けると、単純に契約によって雇われているだけ、とは言いがたいものがある。それがどのようなものなのかをあえて言葉にしてみるなら、それはある種の帰属意識ということになる。少なくとも賃金を得るための場、というドライな考えだけが日本人にとっての会社ではなく、そこに所属していることそのものに価値を見いだそうとする傾向がある。これは昔から上下関係というものに重きを置き、自分がそのなかのどこに位置しているのかに気を配ってきた日本人にとって、ある意味で馴染み深い感覚である。じっさい、戦後日本の急速な経済復興は、戦前まで天皇を中心とする国家に属していた国民たちのあらたな帰属先として、企業が受け皿となった結果だという説を唱える知識人は多い。

 だが、会社の一番の存在意義は利益を出し続けることであって、社員を養うことではない。それゆえに、会社の業績が悪くなれば社員を「リストラ」することも、選択肢のひとつとして入ってくる。ここでひとつ見えてくるのは、会社側と社員側における意識のズレだ。とくに社員側から会社という組織を見たときに、はたして会社で働くとはどういうことなのかという命題が、常についてまわることになる。今回紹介する本書『工場』を読むと、そんな日本人の会社に対する認識を考えずにはいられなくなる。

 工場とは一体何を作って、何をしているのだろうか。工場が何を作っているのかなど、当然よく知っていたつもりだったが、工場の中で働いてみるとまるでわかっていない気分になった。何の工場なのだろう。

(『工場』より)

 表題作のほかにふたつの短編を収めた本書は、いずれもちょっとした群像劇のような様相を呈している。たとえば表題作である『工場』では、おもに三人の登場人物が出てきて、彼ら三人の主観が代わる代わる入れ替わっていくことで物語が進んでいくのだが、いずれもその作品における中心人物という立ち位置にはない。というよりも、彼らのあいだに何らかの人間ドラマが展開するわけではなく、そうした視点で物語を追うこと自体にあまり意味はない。では、その作品には何が書かれているのかと言えば、それは「工場」という、奇妙としかいいようのない「場」だということになる。

 この作品で「工場」という名で呼ばれている場所は、じっさいには何かの製造現場を指しているのではなく、それらをふくめたもっと広範囲の空間を総称するものとして、人々に語られている。そこには工場はもちろん、本社ビルがあり、川や森があり、食堂や郵便局、銀行、ガソリンスタンドやクリーニング屋といった建物があり、遊興施設があり、それらをつなぐ道があり、さらにそこから外につながっている県道まで整備されている。つまり「工場」とは、そのなかで人々の生活すべてをまかなうことができる、言ってみればひとつの町のことを指しているのである。そしてじっさいに「工場」には、住宅地区と呼ばれる一角があり、工場ではたらく家族がそこで暮らしていたりする。

 こうした状況から、この「工場」を所有する会社が相当な大企業であることが見えてくるのだが、その「工場」に何らかの形で雇われることになった三人の視点から見えてくるのは、当然のことながらそのほんの一部にすぎない。たとえば兄と妹が同じ「工場」に雇われているにもかかわらず、その「工場」内で出くわすことは一度もなく、それどころか同じ「工場」で働いていることさえ、本人に言われるまで気づかなかったくらいである。さらに言うなら、兄のほうは印刷されたさまざまな資料の校正を、妹のほうがさまざまな資料をシュレッダーにかけるという仕事をしているのだが、たとえば校正とはいっても渡されるのは社内向けの印刷物で、多少不具合があったところで見逃されるようなものばかりであるし、シュレッダー業務にしても、量は多いものの本当に重要機密のふくまれた資料は皆無で、いずれにしても自分のしていることが仕事として何の役に立っているのか、ふたりとも皆目見当もつかないまま、それでも給金を得るためにその仕事をつづけているような状態にある。

 会社のなかにはさまざまな業務があるが、どのような業務にしても、そのすべてのつながりを把握している者は皆無に近い。会社としての存続が長く、またその規模が大きくなればなるほどその傾向が強くなる。もちろん、はじめた当初は意味のある業務であったのだろうが、年月が経ち、当時その業務にかかわっていた人が代替わりしていくことで、そもそもの業務の意義が見失われ、業務そのものがひとつの目的と化していく。これはたとえば、神道における各種儀式が、今ではその本来の意味がわからないままに、形式にのっとって今にいたるまで続けられているというのと、本質的には同じことである。誰もその意義がわからないので、それを変えたりやめたりすることで、どのような不具合が発生するのかもわからない。であれば、とりあえずそれを続けていくしかないのだ。

 表題作における時系列がバラバラであることも、「工場」という奇妙な空間を演出するひとつの手法であり、とある大学の研究生が、屋上緑化のプロジェクトのために「工場」に雇われてから、いつの間にか十五年以上も年月が経っているのもそれにあたる。彼はもともとはコケを専門とする生物学者の卵だったのが、なぜか屋上緑化のための分室にたったひとりで配属され、しかもやっているのは「工場」見学の一環となっているコケ観察会だけ。プロジェクトの見直しを担当に訴えるも、担当もなぜか「自分のペースで、お好きなように」としか言わず、それで年月が流れてみれば、いつのまにか屋上緑化という本来の目的は完全に彼の手からは離れてしまっているという状況に、呆然とさせられるのである。

 この「工場」で仕事をしている人たちは、いずれもそのごく一部だけにかかわっており、どれだけ読み込んでいってもその全体像はいっこうに見えてこない。何のためにその業務をしているのか、そもそもこの「工場」は何をつくっているのか、誰にもわからないままに、ただ生きるための生活を続けていく人々の様子を描いた本書の皮肉は、たとえば小学生の観察記録に出てきた、「工場」固有の生物と何ら変わらないことからも見て取れる。工場の排水溝を巣にし、温水の中で生きている灰色ヌートリアにしろ、クリーニング屋の洗濯機をその住処にする洗濯機トカゲにしろ、なぜその環境がそんなふうであるのかを意識することはない。ただ、その環境に適応して生きているだけのことである。本書に登場する人たちとそれらの生き物たちのあいだに、いったいどれだけの差があると言えるのだろうか、という問いかけが、そこにはたしかにある。

 このまま漫然と、何となく校正し続けても成長しないような気がする。校正し終わった書類を誰かが見ている気配もなく――(中略)――校正のやり方が合っているのか間違っているのかもわからないから、これでは成長のしようがない。

(『工場』より)

 この作品に登場する三人は、基本的に真面目な性格をしている。自分のたずさわっている仕事がその会社でどのような役割をもっているのかに疑問をもち、そのことを気にしているのだが、それに答えることができる人間はおらず、それゆえにストレスを抱え込んでいたりもする。あるいは、この「工場」で生きるためには、適度に不真面目であることが必要とされるのかもしれないのだが、それはそれで問題ではないかと思わずにはいられない。もし、給料をもらうことだけが仕事の意義だととらえている人がいるならば、本書を読むことで何か考えさせられるきっかけが得られるかもしれない。(2014.12.24)

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