【筑摩書房】
『顔』

南伸坊著 



 世の中にはさまざまな小説が存在し、それぞれの物語のなかでは多くの人物が登場し、活躍したりある役割を与えられたりしているが、そうした登場人物の顔がどんなふうであったか、と問われると、私たちはあらためて、その登場人物がどんなに印象深いものであっても、顔を思い浮かべるのが非常に難しい、ということを思い知ることになるだろう。というか、そんなことはおそらく不可能だと言ってもいい。よく考えてみればあきらかであるが、私たちは小説内の登場人物たちを、顔を見て判断しているわけではない。私たちは大抵、名前と文脈によって登場人物を見分けているのであって、たとえば髪型や目の形、年齢や顔の輪郭といった情報を与えられることはあっても、そこからどのような顔の造形を思い描くかは、読者の想像にまかせられることになるからだ。そして、そうした想像力の余地こそが、小説というものの大きな特長のひとつであり、だからこそ、ひとたび小説がドラマや映画になったとき、自分がそれまで思い浮かべていたイメージとのギャップに違和感を覚えたり、また逆に、そのときの俳優の顔が、そのまま登場人物の顔として固定されてしまったりする、といった現象が起こる。

 私たちが普段、もっとも接する機会の多い、人間の顔――本書『顔』は、人間の顔をさまざまな角度から分析・検証……というか、人間の顔に興味を持ってしまった著者が、子どもの悪戯のように、有名人の顔にさまざまな手を加えたり、いくつもの顔を比較したりして、私たちが顔のなかにある情報をどのように受け止め、また人の顔の造形や表情が、人の心にどのような影響をおよぼすことになるのか、ということを明らかにしようとした本だと言っていいだろう。

 本書はもともと『漫画サンデー』という漫画雑誌に「顔面科学」という名で連載されていたものを収録したものであるが、べつに顔面について科学的なアプローチを試みているわけではなく、言わば著者の思いつき、フィーリングを基礎とした、顔面に関するコラムのようなものである。そしてページを開けば顔・顔・顔……。歴史上の有名人やタレント、俳優、はてはどこかで見たことはあるけどよく思い出せないような顔の写真やイラストがこれでもか、といったぐあいに紹介されていて、嫌が応でもそうした顔たちと面と向かわざるを得なくなってくる。

 人の顔を見て面白がったりするのは、不謹慎ではないか、とお思いになる方も、あるいはいらっしゃるかもしれないが、人の顔というのは、基本的に面白いものだ。じっさい、本書のなかには誰よりも著者自身の顔が何度も出てくるのだが、まるでおむすびのようなその顔は、見れば見るほど三角形で、味のある面白さをかもし出している。そして著者は、たんに面白い顔を面白がっているのではなく、なぜその顔が面白いのか、と考えることを楽しんでいると言うことができるだろう。だからこそ、著者はまず自分の顔をおもちゃにし、人が面白いと言う自分の顔についていろいろ考察することを厭わない。

 なぜ美人は美人であり、ブスはブスなのか。なぜ人は、他人の空似を面白がり、壁の染みや自動車を見て人の顔を連想するのか――よくよく考えてみれば、けっして理屈ではないのだ。だが、私たちは美人を美人と思い、ある人の子ども時代の写真と今の顔を見比べて、たしかに同一人物だと感じる。あまりにあたり前すぎて誰も気にとめたりはしないが、それはどんな優れたコンピュータにもけっして真似のできない「能力」のひとつなのだ。

 論者の仮説であるが、人間のパターン認識のもっとも基底にあるのは「顔を読みとる」ことなのではないか? たとえば、左右対称形に対する偏愛は人体、なかんずく人面に起因するだろうし、あらゆる価値判断の基準は顔色をうかがい表情を読みとり、人相を判別するところに発しているのではないかという考えである。

 もし、この仮説が真実だとするなら、コミュニケーションの本質とは会話をすることではなく、相手の顔を見ることにこそある、ということになる。インターネットの普及によって、メールや掲示板といった顔色の見えないコミュニケーションの手段があらたなコンテンツとなりつつある現代、人間関係とは何なのか、ということの意味をあらためて考えなおすための手段として、本書をとらえるのも悪くない。だが、本書の醍醐味(というか面白いところ)は、やはり理屈にはなりにくい人の顔を、あえて理屈づけしようとしながら、けっきょくのところ屁理屈に終わってしまっているという、著者の文章のお茶目なところであろう。そして、たしかに屁理屈ではあるのだが、私たちは知らないうちに、その文章の一端に妙に納得させられてしまうのである。まったく、人の顔ほど謎だらけで、しかも面白いものはない、ということを、これほど感覚的に訴えてくる本というのも珍しい。

 昔、教科書に乗っている顔写真にくだらない落書きをして面白がった経験のある方は多いと思うが、その頃の、いたずらざかりだった心がふと戻ってきたかのような、そんな不思議な気分にさせてくれるものが、本書の中にはたしかにある。

 なお、本書を読んで人の顔に興味をもってしまった方は、まずはテレビのスイッチをつけることをオススメする。著者によれば、テレビとは「顔を見る装置」だということである。(2002.07.23)

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