【講談社】
『フリーダム・ライターズ』

エリン・グルーウェルとフリーダム・ライターズ著/田中奈津子訳 

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 私が小学生だった頃に担任となったある女性教師は、生徒全員に毎日日記を書いて提出することを課題としていたことを覚えている。その当時、今のように読書好きでも、何かを書くことが好きなわけでもなく、もっぱら友達と外で遊んだり、当時流行り出したテレビゲームをやることに夢中だった私は、正直な話、日記を書くという行為にどれだけの意味があるのかわからずにいて、面倒だと思いながらも、たいていはその日その日のなんでもないことをつらつらと書き綴っていたように思う。今なら、その教師の意図していたことがよくわかる。日記というのはごく個人的なもので、基本的に何を書いてもいいものだ。だからこそ、深刻な問題をかかえている生徒たちがいたとして、日記のなかにその心情を吐露してくれることを期待していたのだろう。もちろん、生徒たちの日記をチェックすることで、生徒たちの問題を早期に発見し、対策を講じていくという意図もあっただろうが、それ以上に書くという行為そのものの力をその教師は信じていたに違いない。

 私は自分のサイトで、読んだ本の書評を公開するということを続けているが、ただ単に本を読んで終わってしまうのと、その本にかんして思ったこと、感じたことを文章として綴っていくこととでは、大きな違いがあることを知っている。何かを書くためには、その書く対象と真正面から向き合うことが必要となってくる。対象を強く意識することで、私たちは自分たちの気持ちを整理し、よりしっかりとした意見なり感想なりへと思考を練り上げることができるようになる。書くという行為は、それゆえにときに辛くもあるが、逆に書くことによって問題がはっきりしたり、思わぬ発見やつながりを導いてくれることもある。それは書くことの大変さを払拭するほどの楽しさをもたらしてもくれる。でなければ、私はとっくの昔にサイトの運営に飽きてしまったことだろう。

 今回紹介する本書『フリーダム・ライターズ』の著者は、「エリン・グルーウェルとフリーダム・ライターズ」となっている。エリン・グルーウェルというのは、カリフォルニア州のロングビーチにあるウィルソン高校に赴任してきた新米の国語教師の名前、フリーダム・ライターズというのは、その女性教師の担当することになった生徒たち150人の呼称であり、言ってみれば本書は、教師と生徒たちが共同で、高校生活の四年間の出来事をつづったノンフィクションである。だが、それだけならけっして珍しいことでも、特別なことでもない。また、エリン・グルーウェルの担当クラスは、白人だけでなく黒人やラテンアメリカ系、アジア系といった人種の子どもが入り混じっているうえに、他の高校を退学となって流れ着いた者や、刑事事件をおこして更生中だったり保護観察中だったりする者たちだらけの、まさに問題児ばかりが集まっており、そこにやってきた新米教師の熱血授業ぶりや感動の人間ドラマを物語る作品、という要素も秘めてはいるが、それもまたありがちと言えばあまりにありがちなものだ。本書が伝えようとしている真に重要なこと――そのもっとも大きなテーマは、さまにそのタイトルの「フリーダム・ライターズ」という言葉に内包されている。

 エリン・グルーウェルの授業を通じて、生徒たちが自主的に名乗るようになった「フリーダム・ライターズ(Freedom Writers)」という言葉に対して、本書では「自由のための書き手」という邦訳がついている。じつはこの造語には元となった言葉がある。「フリーダム・ライダーズ(Freedom Riders)」――「自由のための乗り手」と呼ばれた13人の大学生は、1960年代にアメリカ南部で激しかった人種差別政策に抗議するため、当時肌の色によって席をわけていた長距離バスに乗った。この抗議に参加した人のなかには白人もいたし黒人もいたが、彼らは肌の色に関係なく好きな席に座りつづけたのだ。同じ人間であるはずなのに、肌の色が違うというただそれだけの理由で差別したり、ひとくくりにしたりするのは間違っている、という強い信念に裏打ちされた彼らの行動に感化されてのことだったが、そんな生徒たちも、学期の最初のころは、違う人種のクラスメイトを毛嫌いするばかりでなく、憎悪さえしていて、それがあたり前だという環境にいた。教師の言葉と、彼女が生徒たちに自由に書いていい、ということで渡した日記の内容によって構成されている本書を読んでいくと、そうした生徒たちの変化が目に見えてわかってくるという仕組みになっている。

 生徒たちの置かれている状況はさまざまだが、彼らを取り巻く家庭事情は総じて厳しいものがある。ギャングの抗争、麻薬の密売といった犯罪行為があたり前のように起こり、親しい者たちの死を頻繁にまのあたりにしなければならず、自身もまたいつそうした暴力や銃弾に傷つけられるかという思いから、極端に刹那的な生き方をしている生徒、家庭内暴力に日々おびえて暮らしている生徒、アルコール中毒やドラックの禁断症状に悩まされている生徒、レイプされた過去をもち、高校生でありながら堕胎の経験さえしたことのある生徒、種族の違いから来るいじめやその報復――怒りが怒りを呼び、憎しみがさらなる憎しみを生み出していくというはてしない負の連鎖に、生まれながらに巻き込まれてしまっている生徒たちを相手に、エリン・グルーウェルは彼らに第一に教えるべきなのは「寛容」の精神であることを痛感する。たんに知識を詰め込むだけの授業ではなく、教材としてとりあげた本の内容を、かならず今を生きる生徒たちの教訓へと結びつけることを心がけたエリン・グルーウェルの授業は、たとえばシェークスピアの「ロミオとジュリエット」における両家の対立の愚かさを、ギャング同士の対立の愚かさを説くためのものとして展開させていく、という具合だ。

 『アンネの日記』や『ズラータの日記――サラエボからのメッセージ』といった本から、たとえばある集団を「黒人」とか「ユダヤ人」とかいった表現でひとくくりにすることが、どのような悲劇を生み出す土壌となるかを実感した生徒たちは、同時にそうしたくくりを、自分自身に対しても適用してしまっていることに気づくことになる。自分がどこの種族に属しているのか、ということを中心に生きてきた彼らは、アンネやズラータの体験を自分のこととして受け止め、彼女たちに勇気をもらい、そうした束縛から自由になることを望むようになる。それまでえんえんとつづいてきた負の連鎖を断ち切るための行動――けっして安易な道ではない方法を、あえて選びとった生徒たちの力強さ、一冊の本がもたらす影響力の大きさ、エリン・グルーウェルの教育に対する信念、それぞれが感動的であるのだが、何より大きいのは、生徒たちが種族を超えた「人間」として団結し、助け合うことで、文字どおりどんな困難も成し遂げてしまうことを学んだことだ。自分はけっしてひとりではない――彼らを結びつけた「フリーダム・ライターズ」という日記がもたらす可能性は、そのまま地球上に生きるすべての「人間」の心を結びつける可能性へとつながっている。

 自分の思うことを自由に書くという行為が、そのまま彼らの自由への行動へと一歩足を進める力へとつながっていくという奇跡は、キャサリン・ライアン・ハイドが『ペイ・フォワード』のなかで実現させようとした「世界を変える方法」や、辻邦生の『背教者ユリアヌス』において、ユリアヌスが信じた「自由=正義」を髣髴とさせるものがあるが、本書に書かれたことはフィクションではなく、真実この世界で起こった出来事である。何かを変えるということ、その小さな一歩を踏み出すということ――人間のかぎりない可能性という、なんとも歯の浮くような言葉をそのまま信じてみたくなってしまう、そんな力が、本書のなかにはたしかにある。(2007.10.18)

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