【第三文明社】
『最初の教師・母なる大地』

チンギス・アイトマートフ著/赤沼弘訳 



 1991年12月、世界初の社会主義国家であり、またアメリカと並ぶ超大国として世界に君臨してきたソ連が世界地図から姿を消したとき、一部のメディアでは冷戦構造の崩壊とともに、アメリカ=資本主義経済の勝利、ソ連=社会主義経済の敗北という図式を好んでもちいていたように思うが、それが一面的なものの見方でしかないことは言うまでもないだろう。私はけっして社会主義や共産主義について明るいわけではないが、そもそも社会主義国家の理想が、利己主義的な利益追求に根ざす資本主義によって拡大していく不正、不平等、貧富の差をなくし、真の意味で誰もが平等な社会を築いていくという思想、あるいは倫理的な側面から発生したものであり、ソ連のという壮大な「テストケース」が、結果として「国家資本主義」とも言うべき歪んだ中央集権体制へと変化し、本来の社会主義の理想から大きくかけ離れたものであったことは、その手の文献に目を通せばわかってくることである。

 キルギル共和国、という国をご存知だろうか。中央アジアの高地に位置するこの国は、旧ソ連を構成していた15の共和国のひとつであり、本書『最初の教師・母なる大地』の著者であるチンギス・アイトマートフの生まれ故郷でもあるのだが、本書のなかには、かつてキルギス共和国がソ連の一部であった頃の人々の生活――政治や経済といった大局的なものではなく、あくまでその土地とともに生き、死んでいく農民たちの、等身大の姿が描かれていると言うことができるだろう。

『最初の教師』は、クルクレウと呼ばれる小さな部落で、学問とは無縁な生活をおくっている子供たちに勉強を教える、という情熱を抱き、たったひとりで学校を建て、たったひとりの教師となったジュイシェンと、そんな彼の気高い心に惹かれ、彼を愛し、そして彼の意志を継いで立派な学者となったアルティナイの物語である。彼女の手紙による告白というスタイルをとったこの作品では、人々の嘲笑のなか、すべての国民がより文化的な暮らしができるよう、自分の身をかえりみずに教師としての職務をまっとうしたジュイシェンが、結果として彼の生徒であったアルディナイを立派な学者にしたことで、人に何かを教えること、教師という職業の本質がどういうところにあるのか、ということに迫ろうとしている。

 いっぽう『母なる大地』では、コルホーズに生きる農家の母であるトルゴナイが、戦争という悲劇によって自分の息子や夫を次々と奪われながらも、なおその日その日を懸命に生き延びようとする姿を描いた物語である。国のために、国民の幸福のために戦うことを決意し、戦死していった息子や夫――戦争というものを、前線で戦う兵士の立場ではなく、また国家的レベルからでもなく、その土地に残された者たちの立場から描いたこの作品には、人々が信じていた国の政治によってかけがえのない家族の絆を奪われた妻や母の、身を引き裂かれるような悲しみに溢れていると言っていいだろう。そして、人はそれでもなお、自分の生を精一杯生きていかなければならないのだ、ということも。

 文学の枠組みのなかで「ロシア文学」といえば、ドストエフスキーをはじめとする多くの世界的文学者を抱える有名な分野であるが、本書はある意味で「ソビエト文学」と称すべき作品として仕上がっていると言えるだろう。そもそもソ連の掲げていた社会主義が、資本家に不満を持つ労働者階級を中心とするものであり、ソ連崩壊時に農民が国民の80パーセントだった事実を考えれば、本書が農村を舞台にしたプロレタリア文学的側面をもつのは、至極あたり前のことだと言える。だが、本書を読んでいくとおのずとわかってくるのだが、『最初の教師』にしろ『母なる大地』にしろ、どこか社会主義を賛美するようなイデオロギー臭さが色濃く反映されているように思えるのは、はたして私だけなのだろうか。

「私たちは今はまだ貧しい」ジュイシェンの声はもう低く落ちついていました。「私たちは一生涯ふみにじられ、侮辱されてきました。知識もなく、読み書きもできなかったのです。ソビエト政権は、私たちが文化的な暮しをし、読み書きを覚えるようにと願っているのです。……」

(『最初の教師』より)

「トルゴナイ、いったいおれたちは以前、何者だったんだろう? 国民のおかげで、人間になったんじゃないか。だからな、何もかもだ、いいかい、よいことも悲しいことも、そのすべてを国民と分けあわなけりゃいけないんだ。……」

(『母なる大地』より)


 旧ソ連にしろ、中国にしろ、あるいは北朝鮮にしろ、社会主義や共産主義をかかげる国家は、いずれもその理想が個人崇拝から来る厳しい中央集権体制へと容易にすり替わり、官僚腐敗や大量虐殺をはじめとする多くの悲劇を生み出していった。それは社会主義国家としての失敗であることを否定するつもりはない。だが、その国家を構成する人々は、やはりひとりひとりがちゃんとした感情を持ち、ものを考える想像力を持つ人間であることも、同じように否定することはできないはずである。

 本書の中にある世界は、国の豊かさがそのまま国民の豊かさへとつながると純粋に信じられてきた時代の物語である。だが、私たち日本人がアレルギーのごとく拒否反応を示してきた「イデオロギー」を完全に切り離した状態で、あらためて本書と向き合ったとき、著者自身に「社会主義の賛美」という意図があったかと言えば、それは「ノー」だと断言することができるはずである。著者はおそらく、自分の生まれ故郷であるキルギスの人々が、その雄大な自然とともにどのように生きてきたか、その真実を書いたにすぎないのだ。でなければ、『最初の教師』において、当然評価されるべきジュイシェンの功績が、なぜ国ではなく、その教え子による告白によってもたらされなければならなかったのか。また、『母なる大地』において、トルゴナイの息子マセルベクは、なぜ国家のイデオロギーのためではなく、「戦争というこの怪物を叩きのめし、抹殺する」ために戦場へと赴いていったのか。

 本書の解説に「社会主義リアリズム」という言葉がある。これは社会主義を賛美するために量産された、安易な形態の作品群のことを指す。本書もまた「社会主義リアリズム」の影響をまったく受けていない、と言うわけではないが、そうした国家的制約のなか、ソ連という国に生きた人たちの姿を描いた本書には、確固たるイデオロギーが崩壊し、かといって確固とした個人的価値観をもつこともできないまま、ゆるやかに廃退していく成熟社会にいるかのような私たちに、忘れていた何かを思い出させるものがあるように思えてならない。(2002.06.02)

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