【英治出版】
『懐情の原形』
−ナラン(日本)への置き手紙−

ボヤンヒシグ著 



 ケニア出身の環境保護活動家であるワンガリ・マータイは、2005年2月に日本を訪問したさいに「もったいない」という言葉と出会い、それがきっかけとなってこの日本語が地球環境を考えるさいのキーワードとなりつつあるという。Reduce(減らす)、Recycle(再資源化)、Reuse(再利用)といったいくつもの単語で示してきた、環境保護に重要な要素は、この「もったいない」という単語ひとつですべて表現できると彼女は語り、そのことにことのほか感銘を受けたというのだが、そうした記事を読んだときに私が思ったのは、まぎれもない日本語であり、私たち日本人にとってはなんということもない単語であるはずの「もったいない」が、他の言語に翻訳されることなく、そのまま「MOTTAINAI」として、世界的な広がりを見せる単語となっていったという点である。

 他の言語で翻訳できない日本語というものがある。それは言ってみれば、それらの言葉のなかに日本という国の文化や伝統が宿っている、ということでもある。私も含めた日本人は、日本語を母語として日々の生活を営み、そのなかであたり前のように日本語を使う。だが、母語として使っているがゆえに、その言葉の性質について見えにくくなっていることも確かである。よく「けりをつける」と言うが、その「けり」とは何なのか。「ありがたい」という言葉を構成する「有り」と「難い」は、どのような関係をもっているのか。日本語の外にいるワンガリ・マータイのような外国人が、純粋にひとつの言葉として日本語をとらえたとき、私たちはそれまで意識しなかった母語の側面を、あらためて認識することになる。そしてそれは、日本語だけでなくあらゆる言語においても成立するものでもある。

 不安定な状態こそ僕の居場所、僕自身が僕の居場所。この三つのことばが等辺三角形であったとしても、それが常に膨らんだり歪んだりする。時としては消えたりもする。それがわが家なのだ。

 本書『懐情の原形−ナラン(日本)への置き手紙−』の著者であるボヤンヒシグは、内モンゴル自治区出身の詩人であり、そういう意味ではモンゴル文学、あるいはモンゴルの詩人という位置づけをされるべき人物であるが、そうした出身地によるくくりが、かならずしも著者のすべてを言い表しているわけではない。上述の引用にある「三つのことば」とは、モンゴル語、中国語、そして日本語の三つを指し示す。モンゴルの草原で生まれ育ち、北京の出版社に勤め、そして日本に留学して詩人の荒川洋治の教えを受けた著者にとって、この三つの言語はいずれも自身を語るのに欠かせない要素であると同時に、いずれの言語にも根づくことのない独特の感性を育むことになった。

 掌編とも言うべきエッセイと、数編の詩で構成される本書は、いずれも日本語で書かれてはいるが、その内容はときにモンゴルのことであったり、中国のことであったりして、けっして日本のことに限定されているわけではない。そういう意味では、前回紹介した多和田葉子の『エクソフォニー−母語の外へ出る旅−』にも通じるところがあるが、多和田葉子が母語である日本語の外に出る状態について積極的であり、言語と言語のはざまに居場所を見出そうとしているのに対し、著者の場合、三つの言語のいずれにも属していながら、本質的な部分でそのいずれの言語圏にも身を置けないでいる自身の不安定さに、一抹の寂しさを覗かせるようなところも見受けられる。実家に戻っても、どこか客人としての自分を意識し、また生の日本語を取得しようと努力しつつも、どうしてもその限界を感じずにはいられないという独白めいた言葉が、そうした心情を裏づけるものであるが、だからこそというべきなのか、著者の生きた言葉というものへの思い、言葉こそが自分を自分たらしめる唯一のものだという、静かではあるがけっして弱くはない意思を感じとることができる。

 僕らは毎日、通称の中に生きている。それがつまり世間である。――(中略)――例えば、「少数民族」とか「稀有動物」。通称で簡単にひとくくりされる。たくさんの個性が通り一遍にまとめられてしまう。

 だが、著者の存在はけっして通り一遍の「通称」にはまとめられない。モンゴルという外国を故郷にもちながら、まぎれもない日本語で書かれた本書を、はたして海外の作品とするか国内の作品とするか、この書評を書きながら私は悩む。そして悩みながら、そうしたくくりからスルリと抜け出ていく著者が、自身の「わが家」として詩という表現形式を選んだことは興味深い。自動翻訳ソフトをもちいてもけっして自動にならない詩の表現は、たしかにあるひとつの言語を超えていくようなところがあるからだ。「梅雨」という日本語のなかに梅の花を見出し、それをモンゴル語に訳したときにあてられる杏の花を思う。海と草原の類似を見ながら、それでもモンゴルの草原を海にたとえることを躊躇い、いつまで経っても海を遠いものとして感じる。そこには、奇しくもワンガリ・マータイが「もったいない」という日本語に出会ったときと同じような心の動きがある。ある言語を、純粋に言葉としてとらえる著者の詩は、素朴でありながらけっしてひとつの意味にとどまらない揺らぎを感じさせる。

 私にとって、母語がさだまらない状態というのがどういうものなのか、想像するのは難しい。日本人であるということがあたり前すぎて、意識することさえないのと同じように、日本語を使うということも、私のなかにあたり前のようにして存在する。ただ、たとえば『千年の祈り』の著者であるイーユン・リーが、母語の中国語ではなく英語のほうがより自由に書けると語るとき、自分の故郷や母語に縛られないという感覚に大きな可能性を思わずにはいられない。

 日本の豊かな四季がじつな多様な色に関する日本語を生み出したように、よく知っているはずの日本語のなかにも、まだまだ私たちの知らない部分がある。そんな日本語のあらたな側面をまのあたりにさせられる本書に、ぜひ一度触れてみてほしい。(2008.03.02)

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