【扶桑社】
『私にふさわしいホテル』

柚木麻子著 



 私は本を評するさいに、あくまで書かれた作品の事柄について言及していき、著者自身についてはあまり触れないようなスタンスをとっているが、それでもかつて小説家になることを目指していた身として、小説家と呼ばれる人たちが作品を書きつづける原動力が、どこからやってくるのかについてふと考えることがある。私のような人間でも、小説を「書く」ことは可能だ。だが、「書きつづける」ということになると話は別である。およそ小説にかぎらず、何かをはじめること自体はそれほど難しくはないのだが、一度はじめたことを持続させることの難しさは、経験のある方にはよくわかることと思う。

 とくに小説を書くというのは、基本的に孤独な作業だ。それはたったひとりでひとつの世界を再構築していく作業に等しく、たとえばある程度軌道に乗ってしまえば、人の意思など無関係に動き続けていく会社経営とは対極にあるものである。そんな行為が大変でないはずがないのだが、それでもなお、小説家が小説を書きつづけるのは、それがまさに孤独な作業だからに他ならない。小説家であること――それも、不特定多数のライターではなく、個人名をもつ小説家でありつづけるというのは、見方を変えれば他の誰でもない、まぎれもない自分自身でありつづけることでもある。企業をはじめとする組織の一員のように、自分の代わりになる者がいるわけではない小説家という地位は、誰しもが自分という個と対峙せずにはいられない領域だ。だからこそ、今回紹介する本書『私にふさわしいホテル』に登場する中島加代子はある意味で衝撃だった。その衝撃はおそらく、小説家であることではなく、小説家でありつづけることの本質を凝縮した人物像であるからこそのものである。

 平成の小説家に圧倒的に欠けているのは執念とハッタリではないだろうか。本人に決して言うつもりはないが、遠藤は加代子の「才能」を誰よりも高く買っている。

(『私にふさわしいホテル』より)

 表題作をふくめた六つの短編を収めた作品集という体裁をとっている本書であるが、ヒロインである小説家の女性、中島加代子と彼女をとりまく人々の物語であるという一貫性、また時間経過という部分でもひとつながりになるという点において、本書はそれ自体がひとつの物語として成立していると言っていい。そして本書全体を俯瞰したときに見えてくるのは、「復讐劇」という要素である。だが、ここで問題となるのは、いったい「誰」に対しての復讐なのか、という点である。

 本書のおもな語り手である中島加代子は、「日本の文芸史上、もっともついていない新人」という肩書をもって登場する。彼女は三年前、実用書専門の中堅出版社主催の、歴史の浅い新人賞に「相田大樹」のペンネームで応募し、大賞を受賞した。だがその受賞は、同時受賞した元アイドル女優島田かれんの存在によって誰の目にも止まらないものとなってしまったのだ。とにかく新人賞がとれればいい、という思いと、なかなか小説家としてデビューできない焦燥もあっての選択ではあったのだが、まるでアイドル作家の当て馬であるかのような扱いが、彼女の自尊心をいかに傷つけるものであったのかを想像するのは、さほど難しいことではない。

 小説家にはなったものの、誰もその存在を知らないし、興味ももたれない――自身の個というものにひたすら対峙する小説家にとって、これほどの屈辱はほかにない。本書はそんな彼女がいかにしてその逆境をはねのけ、有名小説家として文学界をのし上がっていくかをつづった作品であり、またその栄光を勝ち取るためには手段を選ばず、どんな機会でも利用して相手を蹴落としていく度胸と執念、そして何より、自分より有名になっている作家をはじめ、自分の敵ばかりでなく味方となる者たちにまで向けられる激しい嫉妬心が、本書の大きな読みどころであることは間違いない。

 じっさい、中島加代子は表題作において、大御所作家である東十条宗典の文芸誌連載を故意に落とさせ、自分の作品を代わりに載せるという荒業に成功しているのだが、いっぽう『私にふさわしい聖夜』では、そのさいに共犯者的な関係となった担当編集者であり、彼女の大学時代の先輩でもある遠藤の自尊心をへし折るために、仇敵であるはずの東十条と手を組んだりしている。しかもその理由が「自分の手を汚そうとしないところが気にくわない」からというのだから、ずいぶんと破天荒で自分勝手でもある。とにかく悪女のごとき機転と、演劇サークル時代に培った演技力を駆使して相手を蹴落としていくヒロインであるが、そんな自尊心の塊のような中島加代子を、それでも憎み切れない部分があるとすれば、それは彼女の最大のこだわりが、他ならぬ自分が「小説家」であることのみに向けられているからに他ならない。

 本書を読み進んでいけばおのずとわかってくることであるが、彼女はきちんとした小説家としての才能をもっている女性である。にもかかわらず、彼女が小説家として大成しない、というよりも、本書冒頭ではそもそも小説家としてすら扱われないのは、本人の才能の無さというよりも、それ以外の部分、より具体的に言えば元アイドル女優の出来レースといった、出版業界という組織の力関係において、彼女がつくづく不運な立場に立たされているという理由のほうが大きい。つまり、小説家としての才能がちゃんと評価される場さえ与えられれば、中島加代子という女性は何度でも返り咲くことができる逸材なのである。そして彼女がどんな手段に訴えてでもごり押ししようとするのは、とにかく自分の作品を正統なやり方で見てほしいという一点であり、彼女が何より憎むのは、才能が評価される場をぶち壊しにし、あるいは邪魔しようとする輩なのである。

 かれんにとって予想外だったのは、人が皆、小説の世界を侵さざるべき神聖なる領域、と捉えている点だ。芸能界でなら黙殺される、ちょっとした近道やルール違反が決して許されない。

(『私にふさわしいダンス』より)

 そういう意味において、彼女と真逆の存在として浮かび上がってくるのが元アイドル女優で、小説家への矜持など欠片ももっていない島田かれんであり、最終的には彼女への「復讐劇」という形に物語は収束していく。そして同時に、「才能」というものの有り様についても、私たちは再度目を向けずにはいられなくなるのだ。小説を書く才能ではなく、小説を書きつづけられる才能――はたして中島加代子という女性を真の意味で救うことになったのは、どのような「才能」だったのか、と。

 もっといい作品を書きたい、もっと自分の才能を磨いて皆からチヤホヤされたい、文学界という世界でのし上がっていきたい――その底なしの、貪欲なまでの向上心や執着心というのは、ときに人間の嫌な部分を見せつけられるような気がして良い感じはしないのだが、他ならぬ文芸という世界で、私という個を孤独に見つめつづけなければならない小説家のそんな姿は、あるいはもっとも人間味に溢れたものであるのかもしれない。はたしてあなたは、本書に登場する小説家たちにどのような思いをいだくことになるのだろうか。(2013.08.22)

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