【河出書房新社】
『日本−JAPの明るい未来−』

比留間久夫著 



 人間というのは弱くて自分勝手で、生きることとはまったく関係のない、脆弱な思想のために愚かな争いを繰り返し、地球全体に大きな害を撒き散らしているどうしようもない生き物であるが、それでもなお、人類の歴史を振り返ってみたときに、私たちはそこに、絶対に不可能だと思われていたこと、狂気の沙汰だと見なされていた事柄への、挑戦と達成の連続を見てとることができるだろう。そして私たちはあらためて、卑小なはずの人間の偉大さ、そこに秘められた無限の可能性について、思いを馳せるに違いない。

 地球が丸いとさえ思っていなかった時代に大海原へ船を漕ぎ出したときも、大空を自由に飛ぶ夢を追いかけたときも、そして宇宙への進出を目指したときも、はじめは誰もが「夢物語だ」と一笑した。新しい価値観というものは、生まれた当初は例外なく奇妙な形をしているものであり、それが既存の価値観と対立し、大なり小なりの衝撃を与えずにはいられないものである以上、秩序を守る側からの圧力を受けるのは避けられないものであるが、そうした新しい時代の流れを生み出す動きがなければ、世の中も、私たちも、より良い方向へと変わっていくことができなくなってしまう。

 本書『日本−JAPの明るい未来−』という作品を語るにあたって、まずこの作品が生まれた時代背景が非常に重要な意味をおびてくることを知る必要がある。本書がはじめて雑誌『文藝』に掲載されたのは、95年冬号からのことであるが、この1995年に、日本中を震撼させた恐るべき事件があったのを覚えているだろうか。ひとつは1月30日に起きた阪神大震災、そしてもうひとつが3月20日に起きた地下鉄サリン事件である。天災と人災、という違いはあるものの、これまで私たちが信じて疑わなかった既存の価値観を暴力的な形でぐらつかせ、心に底知れぬ不安を植えつけた、という点では、どちらも同じくらい衝撃的な事件だったと言えるだろう。

 本書に登場する石田美代子が行なってきた一連の行動も、一種の破壊活動である。ただし、それはたんに暴力的で物理的な破壊ではなく、私たち人類が金やモノといった物質的な豊かさから脱却し、真に精神的な豊かさを目指す過程で必要な破壊――大量生産、大量消費、そして大量廃棄を奨励し、先進国と発展途上国との貧富の差をますます拡大させ、大規模な自然破壊をあいも変わらず推し進めている資本主義経済という名の大きな矛盾との戦いで生じる破壊だ。そしてそれは同時に、意識するしないにかかわらず、その物質文明の恩恵をたっぷり受けて育ってきた、私たち自身との戦いであり、自分自身の破壊でもある。

「改革」や「正義」「平和」といった言葉がその本来の意味を失い、いかに胡散臭く、しらじらしい響きを持つものとなってしまったか、については、小泉総理の掲げる「改革」路線がすでに、なかば形骸化しつつあるという事実を挙げておけば充分だろう。逆にいえば、いかに私たちが今の物質至上主義のライフスタイルの快適さに甘んじてしまい、自分さえよければ後は何がどうなろうとどうでもいい、という、何の理念も誇りもない利己主義に陥っているか、ということの表れでもある。そして私たちは、上述したような再生のための破壊に対して、こう言うだろう。それは「夢物語だ」と。

 最大の敵は、個々の心の中にこそある――そのことを誰よりも自覚していながら、かつ阪神大震災や地下鉄サリン事件をまのあたりにした著者が、それでもなお新しい価値観による世界の再生を模索し、明るい未来を真剣に想像したとき、それぞれの章のあいだに、その時代時代で起こった事件や流行、ファッションなどを断片的に集約し、けっして大きくはないが、それでもたしかに旧来の価値観に対する反抗の歴史を、石田美代子という代表者に演じさせるという本書の物語形式が誕生した。時代の最先端をひた走るムーヴメントが、大部分の人たちにとっては奇異なものに映るように、1968年に「女性らしい」長い髪をバリカンで刈り上げ、1970年にはテレビ番組『8時だよ、全員集合!』の生放送をジャック、素っ裸で「黄色いサクランボ」を歌った彼女のふるまいは、奇異であり、おそらく滑稽でさえある。だが、そこから時代を経て、さまざまな失敗のあげく、1994年にはロサンゼルス市長、1998年には日本で衆院議員となり、ついに総理大臣にまでなってしまうという、現実的に考えてけっしてありえそうもないサクセスストーリーを、あえて書き上げたその背景には、そうでもしなければこの世界にまったく救いがない、ということであり、人類という視点でこれからのことを考えたとき、このままでいいはずがない、という焦燥があるように思える。

 石田美代子は、自ら道化役を演じることで、利己主義を封じ込めることに成功した。そして私たちが、この世界を本当によくしたいと考えるならば、なにより自分たちの利益というものを放棄してでも、これからの世界を担う子どもたちにより良い世界を残すという、物質至上主義における最大の道化を演じる必要がある、という強いメッセージ性を秘めた作品、それがサブタイトルに「JAPの明るい未来」とつけられた、本書の大きな価値なのだ。

 21世紀を迎えた私たちを待っていたのは、明るい未来でも何でもなく、アメリカ同時多発テロ事件と、それに対する報復攻撃という、痛ましい事件だったが、これはけっきょくのところ、前世紀が抱え込んだあらゆる矛盾がまったく解決されないまま持ち越されてしまったという事実を、暴力的な方法で目前に突きつけた事件でもあった。そして、アメリカの報復を全面的に支持すると答えた総理に対して、あるニュースキャスターはこんなふうなことを言った。日本は平和憲法をもつ唯一の国として、たとえ今、そのときは馬鹿にされようと、50年後、100年後には「日本の選択は正しかった」と思われるような行動を、誇りを持ってとるべきだ、と。

 世界人類が幸せでありますように、という「夢物語」を、夢のままに終わらせないために、私たちがとらなければならない行動とは何なのか。生まれたばかり赤ん坊が、あらゆるものに微笑みかけるその行為に答えるために、何をなすべきなのか――私たち個々が、今こそ「平和」のための「改革」を誇りをもっておこなうべき時が来ている。そして、他の誰かが与えてくれるのではない、個人が個人の責任でその誇りをもつかぎり、たとえその結果が、『ズームイン朝』の窓ガラスに毎朝出動する、という馬鹿げた行為であったとしても、それが誇りある行動であることに疑いはない。(2001.11.06)

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