【集英社】
『灰色猫のフィルム』

天埜裕文著 



 私たちの生きる人間社会というのは、あくまで人間関係を前提とした、人間たちの主観によってとらえられている世界であって、私たちが社会性というものを基礎とした自身の世界を定義しなおすずっと以前にも、世界はたしかなものとして存在していたはずである。それがどのような形をしているのかを私たちは知らないし、また知りようもない。そんなことを知ってどうする、という思いも、あるいはあるかもしれない。だが、それでも私たちがあくまで社会的な生き物であり、意識するしないに関係なく、そうした土台――自分と同じ社会的な人間たる大勢の他者との関係性で、社会が成り立っているという土台――をとおして世界を認識していると意識することで、世界の見方が変化する可能性はある。

 本書『灰色猫のフィルム』に描かれているのは、そんな人間社会から切り離された者によってとらえなおされた、世界のもうひとつの側面だと言うことができる。

 僕が今パーカーとカーゴパンツを着て髪を剃って顔に痣を作り目の上を腫らして、青いシートに覆われた小屋の中で自分のニュースをテレビで見ているということを知っている人間は居ない。僕しか知らない。

 本書における一人称の語り手である「僕」は、母親を殺して逃亡中の身である。だが、そんな状況説明だけでは、本書の内容を充分に語ったことにはならない。なにしろ語り手本人が、自身の犯したはずの殺人について、その動機やそうなった背景などをまったく語らないのだ。彼のなかで印象に残っているのは、母親を刺したときの感触や、赤い血の色といった断片的な記憶だけであり、およそ人間臭い感情――なぜ母親を刺してしまったのかという後悔の念や、これからどうすればいいのかという不安、あるいは殺してせいせいしたといったある種の悪辣な感情さえ見えてこない。そしてそうした断片的な情景や、脈絡もなく想起される過去の記憶といった描写は、本書全体をつうじて一貫したものであり、それが本書を大きく特徴づけるものとなっている。

 人間社会において殺人という行為は、法によって罰されるべき対象となっている。むろん、その罪の軽重を決めるのは司法であり、場合によっては無罪となるケースはあるものの、およそ人間社会のなかで生きる者にとって、罪を犯すという行為が、ただそれだけで自身と社会との結びつきを意識させられる要素であることは間違いない。だが、母親を刺したときの感触からはじまる本書において、語り手の意思はすでにそうした社会性から切り離された存在として書かれている。つまり本書のなかで生じた殺人は、人間社会から切り離された語り手の世界のなかでは、ただたんにそうなったという事実でしかなく、また、社会から切り離された視点によって世界を再定義するための契機という意味づけしかない、ということになる。

 もちろん語り手は、逃亡という能動的な行動をとりつづけている。だがその逃亡という行為に、罪を犯した者のもつ悲壮感はない。むしろ彼の逃亡は、社会的生き物としての立場を強いてくる社会との関係性から逃れようとしているようにさえ見える。だからこそ服を変え、髪を剃り、自分で顔を殴って変形させ、携帯電話を破壊するという行為に走ることはあっても、誰かの助けを求めて知人と接触しようとしたり、逃亡資金を得るための行為にまでいたることはない。それは、断絶したはずの社会とつながることに他ならないからだ。

 だが、現実としてそんなことがどこまで可能なのか?

 社会から切り離された視線は、それがそこにある社会的意義をその対象に見出すことをしない。ゆえにその描写はクリアで研ぎ澄まされたものになるのだが、描写から描写、行動から行動、思考から思考への連続性は断たれている。家族のもとには戻れない。以前の生活を続けることもできない。だが、ではどうするのかという未来の予想も、当然のことながら存在しない。ひょんなことからホームレスのひとりと知り合いになり、簡素なビニールテントで暮らすことになったときは、そのあらたな社会性への適応のため、嘘の名前と嘘の過去をとっさにでっち上げている。だが、語り手に与えられた役割を考えるなら、それもけっして長続きはしない。

 この物語に何らかの意味を見出すことは、あまり重要なことではないばかりか、むしろ本書の本質から外れてしまうことになる。重要なのは、社会性という、きわめて人間臭い感覚から解き放たれた視点によって、世界がどんなふうに照らし出されていくのかという一点に尽きる。そこには汚いとか臭いとかいった表現はあるが、その事実に対する個人的な見解は皆無といっていい。それらは厳然とした事実として、そこにそんなふうにあるというだけのことだ。同じように路上で唄を歌うパフォーマーの音楽や、ホームレスのところに飼われている灰色の猫も、その社会的立場とは関係なく、いいなと思ったり、愛くるしいと感じたりする。それはある意味で純粋だと言うことができる。だが、その純粋さはどこか狂った純粋さだ。そして本書を読む私を含めた読者は、ふと立ち止まることになる。語り手の視点を「狂った」ものと判断する自分は、はたして物事をどれほど純粋にとらえているというのだろうか、と。

 まるで密閉された部屋の小さな窓から眺めているかのような世界――その世界と自分がいる密閉された部屋とはまったくなんのつながりもない、ということになるのだが、言うまでもなくその境界線は幻でしかなく、世界はどこまでと自分と地続きである。はたしてあなたの目には、本書の見せる世界がどんな姿かたちをとったものとして映ることになるのだろうか。(2012.04.28)

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