【文藝春秋】
『ファザーファッカー』

内田春菊著 



 個人主義と家族との関係を考えるとき、そこには磁石のS極とN極のような、ある種正反対のベクトルが常に働いていることに気づく。個人主義とは、個人の自由を尊重すると同時に、すべての言動の責任を個人がもつべきであるというイデオロギーであるが、血のつながりという、個人ではどうすることもできない関係性で強制的に結びつけられてしまう「家族」という単位は、そうした個人主義を阻害する方向性を本来的にもつものだからである。もちろん、「家族」を構成する人たちの関係性が良好であれば、そこにはたらく相互扶助の精神は個人主義の精神よりもはるかに心地よく、人生をより充実したものにしてくれるはずだ。だが、その関係性が劣悪なものである場合、人はその劣悪さゆえのストレスと常に向き合わなければならないことになる。

 戦後日本の社会が歩んできた核家族化への流れは、それまでひとつの大きな家族で共有してきた消費財を分散させるという意味で、新たな経済効果を生み出すものであり、それゆえに日本社会はその流れを黙認してきたと言うことができるが、「家族」の構成単位が小さくなるということは、その単位内における価値観の単純化が起こりやすくなるということでもある。それでなくとも、平和であることがあたり前のようになってしまった今の日本において、人々はたんに命を永らえる以上の価値観を追い求めざるをえない状況にある。もし、家族のなかの力ある誰かがある偏った価値観を強要した場合、彼以外の構成員に力がなければただ従うほかにない、ということになってしまう。そして、ここでいう力なき構成員として苦汁を舐めるのは、いつの時代においても子どもである。

 その売春宿は、西のはずれにあった。おかみさんは私を十六まで育ててくれた人であり、なおかつ実の母で、お客は彼女の情夫であり、私の育ての父だった。

 今回紹介する本書『ファザーファッカー』の、この思わせぶりな冒頭の引用文が、本当にそのまんまの意味――家族のなかで長女という立場にいた語り手の「私」こと静子が、養父とのセックスを強要されていたこと、そして実の母親はそれに反対するどころか、粛々と娘を養父に差し出していたという事実を物語るものであることを知ったときの衝撃は、なかなかに半端ないものがあった。じっさいにはその前段階として、中学生時代での妊娠と堕胎という体験も含まれているため、上述の引用以上のインパクトをもたらす内容となっているのだが、ある程度の前知識を得ていた私からしてこんな状態であるとすれば、当時本書が発表されたときの衝撃はいかばかりかと思わずにはいられない。

 十六のときに家を出た語り手が成人し、それなりの収入を得られるようになって、当時の自身の置かれていた家庭がどのようなものであったのかを振りかえるという体裁をとっている本書の内容を、語り手自身は「自分のこれまでの物語を否定し、改めて構成しなおす」という表現を使っている。これは裏返すなら、それまでの彼女は自身の過去について、どこかでこれが「普通」であると思い込んでいた、あるいは心のなかでは変だと思っていながら、そのことを意識しないようにしてきた、ということでもある。じっさいに本書を読み進めていくと、彼女の家庭内と外とのあまりのアンバランスさに少なからず戸惑う場面が出てくるが、その戸惑いは、そのまま私たち読者の戸惑いとも直結している。

 ろくに働きもしないくせに家の金を勝手に遊びで使い、暴力を振るうことで家族を従わせようとする実父や養父、そんな夫にうんざりしながらも、それでもなぜか依存することをやめられない母親――そこに書かれているのは、ある意味で典型的な「壊れた家庭」の図であるが、その詳細を赤裸々な告白という形で描いてみせたところに、本書の特長のひとつはある。とくに、語り手の妊娠から堕胎に到るまでの生々しいまでの内容は、おそらくこれが著者自身の体験に基づくものであろうと思わせるリアルさを秘めているのだが、じつはこうした家族の姿は、今の日本の家族に多かれ少なかれ潜んでいる要素が、極端に歪んだ形で噴出したものだと言うことができる。そしてそれこそが、この書評の頭でとりあげた個人主義というイデオロギーである。

 繰り返しになるが、個人主義とは個人の自由を尊重することを第一とする考えである。こうした自己決定、自己実現を良しとする流れは、親族一同がひとつの家で暮らす大家族の形態よりも、より小粒な家族構成で成立する核家族においてこそ実現しやすいものであることは、想像に難くない。だが、あまりに個人主義が台頭しすぎると、今度は共同体の一員としての役割をはたすことに対して支障が生じてくる。それはそうだろう。共同体のなかで生きるということは、個人的に気に入らない人とも付き合わなければならないことを意味するからだ。

 私たちは多かれ少なかれ、自分らしさというものを尊重するような教育を受けてきている。それは同時に、自分以外の個についても、そのありようを尊重するということでもあるのだが、自分という個がとにかく好き勝手にしてかまわないことが個人主義であるという間違った考えを引き起こしがちでもある。個人の自由とは、それにともなう責任もふくめてのものであるはずなのに、権利だけ主張して責任については放棄するという歪んだ個人主義をもつ人たちが、いざ「家族」という共同体を築こうとするときに、どういうことが生じるかを考えるとき、浮かび上がってくるのが本書のような家族の姿である。

 これは語り手の家族、とくに実父や養父に顕著にあらわれているものであるが、彼らにとって家族とは、愛すべき共同体の一員ではなく、自分という個にとってどれだけの利益をもたらすかという価値判断がすべてとなっている。たとえば、彼らは語り手にとにかく家で勉強することだけを強要し、それ以外のことをしているとものすごい剣幕で怒り出すのだが、そのくせ、娘の教育のために時間や金を費やすことをせず、そればかりか自身の都合でその邪魔をするような矛盾する行為を繰り返したりする。それはけっきょくのところ、自分の娘をそうした価値観でしか判断できないからに他ならない。そして娘が成長してくれば、今度は「女」としての価値観を見出すようになるのも、ある意味で必然的なものである。

 本書のなかで、語り手はしばしば両親から、自身の女としての色気を語り手自身の責任であるかのような言われ方をされるが、これは彼女が性的なことで何か問題を引き起こしたとしても、それはお前自身の責任だと言っているのに等しい。その最たる例が、養父によるセックスの強要という流れになるのだが、子どもというものは、基本的に自身の言動に責任をとれない未熟な存在であり、本来であればその責任は親が負うべきものである。そして大人になった語り手は、その点を自覚することになったからこそ本書を書くことになった。

 自分は娼婦だったと語り手は語る。だが、それ以前に語り手は自分が娼婦のように見られることをこのうえなく嫌悪してもいる。そう、本書は他ならぬ自分が自身の意思とは無関係に娼婦にさせられたことを物語る作品なのだ。そしてそんなふうに考えたとき、「ファザーファッカー」というタイトルのなかに含まれた、ある種の激情を思い知ることになる。歪んだ個人主義の責任の部分ばかりを押しつけられた、かつて子どもだった語り手のその激情は、はたして読み手の心をどんなふうに揺さぶることになるのだろうか。そして十六で家を出ることになった彼女のその後の人生が、どのようなものであったのかを思わずにはいられない。(2012.12.13)

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