【新潮社】
『最終目的地』

ピーター・キャメロン著/岩本正恵訳 



 以前読んだ瀬川深の『チューバはうたう』は、他ならぬチューバという、けっしてメジャーとは言えない楽器を趣味として演奏している語り手の独白を書いたものであるが、そこにはたんに「チューバが好き」という言葉だけではけっして表現しきれない、複雑で微妙な感情があった。なぜチューバなのか、他の楽器では駄目なのか、音楽が好きだという思いとチューバとは、どんな関係にあるのか――ともすると、他人から奇異の目で見られさえする語り手のチューバへの思いは、それだけでひとつの小説足りえるものをたしかにもっていた。

 人の心というものは、けっして一枚岩ではない。にもかかわらず、私たちはともすると、複雑なはずの人の心を単純でわかりやすい言葉に置き換え、そうすることであたかも相手の感情を理解したと思い込んでしまうところがある。いついかなるときも変わらない感情などというものは存在しないし、どれだけ強くその思いを持ちつづけていても、人の心や感情は時とともに自然と移ろいゆくものだ。そうした心の機微を簡単な言葉にしてしまうのは、相手を理解するためというよりは、その相手と対峙する自分自身を納得させたいという気持ちゆえのものであったりする。

 物事を合理的に、割り切って処理していくような人生を送ることができるなら、どれだけ楽だろうかと思うことがある。だが現実の私たちは、しばしば理屈よりもわけのわからない感情によって突き動かされてしまう。割り切れない思い、言葉にできない感情は、ときにやっかいで面倒くさいものであるが、逆にいえばそうした割り切れないものがあるからこそ、私たちは人間なのだと言うことができる。今回紹介する本書『最終目的地』は、けっしてエンタテイメント的な要素に溢れた物語ではない。むしろ、物語としては地味な部類に入るものであるが、それでも本書が読者を魅了するところがあるとすれば、それはひとえに登場人物たちの複雑で微妙な心の動きと、それらが衝突するときの緊迫感がこのうえなくリアルな点に尽きる。

 ゴンドラを見て、彼は悲しくなった。そこにゴンドラが伏せられて、存在しない湖の岸に鍵をかけられてしまわれているという事実には、なにかとても悲しいものがあった。

 本書のおもな舞台は南米のウルグアイ、オチョス・リオスという人里離れた小さな町のある邸宅に、一通の手紙が届けられるところから物語ははじまる。それは、数年前に自殺した作家ユルス・グントの伝記を書く許可をいただきたい、というある大学院生からの手紙であり、宛先はその作家の遺言執行人となっている三人の人物宛てとなっていた。ひとりはユルスの妻キャロライン、ひとりはユルスの愛人アーデン、そしてもうひとりはユルスの兄アダム。この三人は、ユルス・グントの死んだ土地で、互いに寄り添うようにして生活をつづけていた。

 少し考えればわかることだが、そもそも同じ男の妻と愛人が同じ屋敷に住んでいるという状況は、私たちの常識で考えれば相当に奇妙で、また異常なことのように思える。なんといってもひとりの男をめぐって争う立場にあるはずのふたりである。はたして、ふたりのあいだにどんな過去があって今に至っているのか、生前のユルス・グントがこのふたりの女性にどのような思いをいだき、何を思って双方を遺言執行人にしたのか――そもそも、ユルス・グントがなぜ拳銃で自分の頭を撃ちぬいたのか、本書のなかで説明されることはない。だがひとつだけわかるのは、この三人の登場人物を結びつけるのが作家ユルス・グントであり、また彼が自殺したという事実だということである。そしてそこには、非常に危うい均衡のもとに成り立っている生活がある。

 そんな彼らにとって、ユルス・グントの伝記を書きたいというオマーの申し出が、まず間違いなく今までの生活をかき乱す火種となることは、想像にがたくない。それゆえに、彼らはいったんはその申し出を断ることになるのだが、いっぽうのオマーのほうは、伝記を書くための助成金を大学からすでに受け取っており、今さら許可が取れなかったなどと言うことができない立場にあった。恋人のディアドラに尻を叩かれるようにして、オマーは彼らが住むウルグアイの邸宅に単身乗り込んでくるのだが、そのことによって広がっていく波紋が、いわば本書の読みどころということになる。

 当初から伝記が書かれるのに反対ではないものの、その代わりにオマーに個人的な頼みごとをはたしてくれることを望んでいるアダム、最初は反対していたものの、オマーの来訪によって心を変えたアーデン、そして頑なに伝記執筆の許可を拒否し続けるキャロライン――オマーが直接三人のもとにやってきたことで、それぞれの考えに相違が生まれ、結果としてそれぞれのあいだに微妙な関係の変化が生じてくるという本書の展開であるが、伝記の執筆に対するそれぞれの考えがどういう心境によるものなのか、詳しいことは書かれていない。ときには本人の口からそのことを説明しようと試みる場面があるものの、あまり要領を得なかったり、本人にもよくわからないと明言されたりする。

 そういう意味において、本書の中心を成しているのは、死者であるはずのユルス・グントだと言うことができるのだが、それはけっして健全な形とは言えないものだ。オマーという存在によって、それまできわどい均衡をたもってきた生活が大きく乱されたとき、三人の遺言執行人は、死者であるユルス・グントに対して、それぞれの思いを整理しなければならない立場に立たされることになる。死者というのは、この世界においてはもはや永遠に変わることのない存在だ。だが、本書に登場する人たちは死者ではなく、そうである以上、変化していくことを余儀なくされる。そのきっかけをつくったのはオマーであるが、その変化をどのようにとらえていくべきなのかはそれぞれの問題であり、またそれぞれの考えが微妙に食い違うがゆえに、そこからちょっとした摩擦や衝突が起こる。本書が見事なのは、そうしたそれぞれの微妙な心境の変化や、そこから起こる軋轢がけっして感情的なものではなく、ちょっとしたしぐさや態度、言葉のやりとりによって表現されているところであり、そうしたところから、登場人物たちが生き生きと息づいているのが感じられるところである。

 ユルス・グントが書いた唯一の作品は『ゴンドラ』という名前であり、それは彼の両親がこの地に逃れてきたときに、持ってこられたものだとされている。じっさいにゴンドラが届けられたのは第二次大戦が終わったあとのことだったが、かつてあったはずの湖はダムの決壊によって失われ、その結果、ゴンドラはその場にまったくふさわしくない長物として捨て置かれることになった。本書を語るうえでもうひとつ重要な点は、その登場人物の誰もが、生まれ故郷を遠く離れた地で生活を営んでいるということであり、湖のない土地に置かれたゴンドラのごとく、静かではあるがどこか不自然なものを感じさせるということである。そしてそれは、遺言執行人の三人だけでなく、イランに生まれてカナダで育ち、今はカンザスの大学にいるオマーについても言えることである。

 本書のタイトルである『最終目的地』とは、三人の遺言執行人が静かに暮らすウルグアイの土地を指すものではあるが、ずっと変わらないと思われてきた場所は、オマーの伝記執筆の話によって変化を余儀なくされ、「最終目的地」は別の何かへと移ろいでいく。何かが大きく変わっていくときの人々の、そのこまやかな心の機微を描いていくことに成功した本書が、最終的にどのような結末を用意しているのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.09.15)

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