【朝日出版社】
『文体練習』

レーモン・クノー著/朝比奈弘治訳 



1. 人間はたがいに狼だ。
2. 人間は人間を食いものにしながら生きている。
3. 人間はたがいにまるで狼のようである。
4. 人間は食うか食われるかの危険の中で生きている動物だ。
5. 人間はたがいにずるがしこく騙しあって油断も隙もない。
6. 人間は性質が自分勝手で狡猾で残酷で野蛮である。
7. 人間は自分の欲望のために巧妙かつ容赦なく他人を犠牲にする生き物だ。
8. 人間は自己の利益をあらゆるものに優先させ、他人の権利を侵害して、生存のためには手段を選ばないところの利己的存在である。

 これは、私が大学時代に学んでいたアメリカ文学の某教授が作成した、表現の抽象レベルをあらわした表で、数字の5を基準として、大きくなれば概念的(抽象的)文章、小さくなれば具体的(感覚的)文章に近づいていく、というものである。8のレベルが論証文、1のレベルが隠喩文として、それぞれ対極に位置しているのだが、この8つの文章が、いずれも同じことを表現していることに注目してほしい。

 同じ日本語で、同じ情報を文字にして書いているのはずなのに、1の文と8の文とでは、読んだときに受ける印象がまったく異なる――そんな言葉の不思議に魅せられて、大学では日本語の文章表現についてもいろいろ学んだりしていたことがあったが、そこには日本語による文章表現にどれだけの可能性があるのか、映画や演劇など、音と映像による情報伝達に、小説というメディアはもはやおよばないのか、という疑問があったのもたしかだ。

 その疑問の答えは、いまだ見つかってはいない。ただひとつだけわかるのは、小説は言葉のみで世界を構築していく表現形式であり、その世界を楽しむためには読者の想像力が大きく関係してくる、ということだ。ただ、その想像力を大きく喚起するか、あるいは逆に萎ませてしまうかを決定するもののひとつに、文章表現の巧みさがあるのは間違いない。同じ一文でも、語尾を「〜だ」とするか、「〜である」とするかで、その文の印象も変わってくる――普段あたりまえのように用いている言葉だが、その世界はまだまだ奥が深く、多くの可能性がひそんでいると思っているのは、はたして私だけだろうか。

 本書『文体練習』は、そんな言葉の可能性を極限まで突きつめていった結果、生まれた作品である。はっきり言ってしまうと、内容は無きに等しい。ある混雑した路線バスのなかで、へんな帽子をかぶった首長の男が隣の客に文句を言って、空いた席にさっさと座るのを見た第三者が、その二時間後にまたその男を見かける。男は連れの者から、コートのボタンのことを指摘されている。これがすべてだ。だが、この同じ内容、同じ出来事を、99通りのまったく異なった表現形式で書いてあったとしたら、どうだろう。

 あるときはメモ書き風に、あるときは隠喩ばかりを用いて、あるときは美文調で、あるときは堅苦しく、ほかにも古文風、短歌、俳句、大阪弁、戯曲風、ソネット風、女子高生言葉など、じつにさまざまな方法で同じことを表現していく本書は、無きに等しい内容を、文章の表現力でいかにして読ましていくか、という点にひたすら特化した作品だと言うこともできる。たしかに、どんなに素晴らしい内容の小説であっても、たったひとつの拙い表現のためにその雰囲気が台無しになってしまうことがあるのは認めるが、なかには嗅覚や味覚で表現したり、擬音ばかり使ったり、品詞ごとに分類してみたり、幾何学風に表現したり、へんにアナグラムや合成語をもちいたり、あるいは語頭音や語尾音を消したりすることで、まるで暗号めいた文章になってしまったりするのを見るにつけ、言葉の可能性というよりも、むしろ執念にも似たものさえ感じてしまう。

 とにかく思いつくあらゆる表現方法でひとつのことを書き綴っていく――そういう意味では非常に実験的な試みであり、いかにも『文体練習』というタイトルがふさわしい本書だが、ではひとつの読み物としてまったく成立していないのか、というと、けっしてそういうわけではない。本書はひとつの内容を99通りに表現しているが、だからといってどこから読んでもいいようにできているわけではないのだ。たとえば、「哲学的」という題のついた章があるが、「非蓋然的時間的偶然の本質性を現象学的精神性に提示する事は大都会にのみ可能で有る」なんて文章をいきなり読んだとしても、きっとわけがわからないに違いない。だが、本書を最初から読み続け、同じ内容が形を変えて繰り返されることを知っていれば、この章もまた同じようなことが書かれているのだと推測して読むことができるようになっている。つまり、本書をはじめから読みすすめていけばいくほど、その表現の特異性を楽しむことができるような順番に並べられているのである。

 それにしても、ここまで多くの表現を思いついてしまった著者にも驚きだが、その本書を翻訳してしまった訳者の力量にも感服せずにはいられない。そのあたりのことは「訳者あとがき」にも解説されているが、原書はフランス語で書かれており、アルファベットならではの言葉遊び的な章や、事実上翻訳不可能な章に対して、もはや意訳ともいうべき改変をおこなっていたりして、その苦労のほどがうかがえる。そういう意味では、本書は「訳者あとがき」もふくめてひとつの作品だと言えよう。

 舞城王太郎の作品は、まるで頭の中で思ったり感じたりしたことをそのまま文章にしたかのような、非常にクセのある一人称で書かれている。また涼元悠一が書いた『青猫の街』は横書きという、インターネットのブラウザ画面を思わせるような形式をとった作品である。おそらく、これからも新しい形式の作品が出てくることになるだろうが、あらゆる形式の文章を集めた、いわば文章表現の博物館のような本書を超えるようなものは、おそらく出てくることはないだろう。仮に、そんな作品が出てきたとしたら、それはもはや小説とはいえない代物となっているに違いない。(2004.02.04)

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