【新潮社】
『奪い尽くされ、焼き尽くされ』

ウェルズ・タワー著/藤井光訳 



 けっして多くのことを求めているわけではない。後世にまで名の残るような偉大なことを成し遂げたり、大金を稼いで贅沢のかぎりを尽くしたりといった、大それた希望をもっているわけでもない。ほんの小さな家庭をもち、そこで育まれるささやかな幸福を愛し、守っていくような生活――だが、そんなごく平凡な幸せすら手にすることができず、また手にしたとしても、それを維持しつづけることができずにいる人たちも、けっして少なくはないことを私は知っている。

 個としての私は、あくまで自分を中心として世界をとらえているのに、世界にとっての私はあくまで大勢の人間のなかのひとりであって、けっして特別な存在というわけではない、という認識を、大部分の人はその人生のどこかで受け入れることになる。社会と折り合いをつけて生きる、という言い方が正しいのかどうかはともかくとして、そうであるなら、せめてその社会のなかで認められている幸福――その気になりさえすれば、誰にでも手に入るはずのささやかな幸福くらいは手にしたいと思うのが人情だ。思えば小説というのは、大なり小なりそんな人たちのままならない幸福を追い求める姿を描いたものだと言うこともできる。そういう意味では、本書『奪い尽くされ、焼き尽くされ』という短編集は、もっともありふれた人間たちの姿を映し出すことに成功した作品である。

 幹のようなO脚で、一生エクササイズをしたところでどうにもならない代物。彼女に訪れた屈辱感は唐突で揺るぎなく、よく考えた末のものではなかった。言葉もなく彼女を襲ったそのむき出しの感覚とは、父親は実のところ一個の人格ではなく、彼女の秘めたる一部分なのだというものだった。

(『野生のアメリカ』より)

 非常に印象的なタイトルである表題作を含む、九つの短編を収めた本書のテーマを、もっとも端的に表現しているのが上述の引用である。「唐突」で、言葉で説明はできないけれど「揺るぎな」い、むき出しの「感覚」――表題作『奪い尽くされ、焼き尽くされ』は北欧バイキングの略奪行為を描いたもので、瀕死の人間の背中に切り込みを入れて肺を取り出し、翼のようにパタパタさせるという冗談のような残虐さを見せたりするのだが、そんな彼らの略奪行為にはなんら正当な理由が存在しない。しかも略奪の対象となった集落は、かつて自分たちが襲撃して根こそぎ奪っていったところで、ろくなものが残っていないとわかっていたはずのところでもあり、そういう意味で、彼らの今回の遠征はまったくの無駄骨だということになる。後に残るのは、自分たちが略奪をはたらいたという事実と徒労感、そして意味の見出せない悲劇性だけだ。

 この短編の一人称の語り手「俺」には愛する女がいて、できることなら彼女と愛をはぐくみたいという思いをいだいているが、およそバイキングという集団に生きる男として、ボスが「いっちょやるぞ」と言えば、それに従わざるを得ない。こうした人間社会における個人としての欲求のままならなさというのは、本書全編において共通したテーマとなっているが、そのテーマの表現方法が多岐にわたっているのも本書の大きな特長である。『茶色い海岸』のボブは仕事をクビになったあげく、出来心の浮気がバレて妻との関係が危機におちいっているし、『下り坂』のエドワードは、なぜか自分と別れた女の新しい男を病院まで車で送っていかなければならない羽目になる。『大事な能力を発揮する人々』の語り手バートの父親は認知症をわずらい、『目に映るドア』の八十三歳になる語り手の娘はバツイチのまま、自分のところに同居している。

 時代や場所、登場人物の立場などはさまざまではあるが、そこに書かれているのは、私たち読者も社会のなかで生きていくうえで多かれ少なかれぶつかることになる葛藤や鬱屈である。ただ、短編の登場人物たちはそうした葛藤や鬱屈について、明確な解決方法を見つけることができず、それゆえにどこかピリピリするような緊張感をかかえ、ときにはその出口のない緊張が何らかの形で噴出してしまう。そしてそれは、たいていの場合暴力という形をとって現われてくるのだが、重要なのはそこに到るまでの過程で積み重なっていく、ちょっとした刺激やストレスのリアルさだ。

 たとえば、元恋人の新しい男が自分の車のシートに誤って穴を開ける。たとえば、美人のいとこへのあてつけのために呼んだ男の子が、自分ではなくそのいとことイチャイチャしはじめる――けっして明確な原因とはなりえないのだが、故意でないがゆえにいっそうたちの悪い、小さな不快な出来事が積み重なっていく様子が、このうえなくリアルに描かれているのが、本書の大きな特長である。そして同じ理由で、明確な救いや解決ももたらされることはない。当人の思いとは無関係に、そして根本的な問題が解決しようとしまいと、日常は続いていくことをさりげなく示唆するような形で、物語は終わる。

 両親が離婚し、べつの配偶者と再婚するというパターンがいくつか登場する本書だが、子どもにしてみれば、親を選ぶことができないのと同様、ただそれを事実として受け入れるしかない。そこに子どもたちの意見が反映されることは、まずありえない。本書が演出する理不尽さ、登場人物たちが感じる不快さや緊張は、そのどうしようもなさという要素が多分に影響している。上述の引用においても、野暮ったい自身のスタイルが他ならぬ自分の父親という、どうあがいても誤魔化せない遺伝的特徴から来ているという思い込みが、彼女のひりつくような感情をいや増す役割をはたしている。

 世のなかがけっして自分の思いどおりになるわけではない、という感覚――ありふれているが、ときに無視できなくなるくらい自己主張してくるその感覚と向き合ったとき、はたして何が見えてくることになるのか、という意味で、本書は注意深く読み込むべき短編集である。(2011.09.03)

ホームへ