【国書刊行会】
『エヴァ・トラウト』

エリザベス・ボウエン著/太田良子訳 



 人間社会における自分の役割というものについて、私たちはふだん、とくに意識することもないままに、何らかの役割を与えられ、それをこなしていく。「役割」といっても、べつに大層なものではない。学校に行けば生徒となるし、会社に就職すればサラリーマンとなる。誰かと結婚すれば夫や妻といった役割が与えられ、さらに子どもが生まれれば父親か母親になる。そして血縁という点でいうなら、私たちは生まれてきたその瞬間から、父母の子どもであることから逃れることはできない。私たちはひとりひとりが個人であることは間違いのない事実であるが、私たちが生きていく社会というのは、個人がどうのという以前に、何らかの役割をはたす者を必要とする。それは言いかえるなら、私たちが社会とかかわっていくためには、社会が認める役割を介した形をとるしかない、ということでもある。

 社会における役割と、個人の意思とのあいだには、常に齟齬が生じる可能性がある。それは社会がそこにいる大多数の意思を代弁する機能をもつ以上、ある意味で必然であり、そこからさまざまな人間の感情が生まれ、あるいはドラマが展開していく。私たちは意識するしないにかかわらず社会的な生き物であって、そこから放り出された場所では生きてはいけない。自分と社会とをつなぐ接点として、私たちは何らかの役割をはたしながら生きていく。それはときに、当人にとってはなはだ不本意なこととして認識されるかもしれないが、それでもなお、社会がそれを必要とし、社会とつながっているというひとつの安定を得ることはできる。たとえそれが、別の誰かと交換可能な「役割」であったとしても。

 今回紹介する本書『エヴァ・トラウト』について、何かを語るのはとても難しい。その要因のひとつとして、文章のとっつきにくさがあるのだが、ときに文章の前後の関係が入れ替わったり、そのつながりがうまくつかめなかったりして、全体としてどこかとっちらかったような、煙に巻くような文体がつづく本書の難解さを、たんに訳者の力量の問題としてしまっていいのかどうかは、微妙なところである。というのも、こうした文章の難解さ、言葉をもちいて表現しているにもかかわらず、その真意がなかなか見えてこないというある種の特徴が、そのままエヴァ・トラウトという本書の中心人物のもつ性質とリンクするようなところがあるからだ。

「ここで私たちはハネムーンを過ごすはずだったのよ」

 物語は、彼女のこんな唐突なひと言からはじまるが、この言葉の裏に含まれるあらゆるものが、まさにエヴァ・トラウトという人物を象徴するものだと言うことができる。大柄で無口なエヴァはもうすぐ二十四歳。母親シシーは彼女が生まれてすぐに家族を置いて逃げたあげく、飛行機事故で死亡し、それ以降、彼女は世界じゅうに出張する仕事をもつ大富豪の父親ウィリーとともに、世界各国を転々と流転する少女時代を過ごした。その後、ウィリーの自殺によって巨万の富を継承する立場になった彼女は、その正式な手続きができるようになる日まで、後見人であるコンスタンティンのはからいのもと、かつて彼女が通った学校で英語教師をしていたイズーの家にあずけられることになり、そこで牧師であるダンシー 一家とも知り合うことになる。

 こうしてエヴァ・トラウトのことを書きつづっていくと、なかなか普通とは言えないような遍歴をもっている彼女であるが、なによりこのなかには、いくつもの疑問が渦巻いている。たとえば、母親はなぜ家を捨てたのか、父親はなぜ自殺したのか、なぜエヴァはイズーに対して特別な思い入れをもっているのか――だが、本書を読み進めていっても、読者はなかなか彼女の心理をつかみとることができない。いくつか、それ原因らしきものをほのめかせるような記述はあるものの、それらは彼女の周囲にいる人たちの憶測であって、事実ではあるかもしれないが、エヴァの真意というわけではない。疑問といえば、上述の彼女の言葉にしても、「私たち」という婚約者が誰なのかはいっこうに話題にのぼることはなく、後にそれが彼女のついた嘘であることがわかってくるのだが、ではなぜそのような嘘をつかなければならなかったのか、それも、かつて彼女が一学期のみ入れられ、その後閉鎖されたという元学校までわざわざ遠出したうえで、そんなことを言わなければならなかったのかは謎のまま残されてしまう。

 物語の登場人物、それも、中心人物ともなれば、そこに何らかの思い入れや感情移入がなされるような描かれかたをされる傾向にあるはずなのだが、本書の場合、エヴァが何を考えて行動し、会話をするのかが注意深く排除されており、他の登場人物はもちろんのこと、私たち読者さえもその心理に触れることができない。結果として、エヴァとそれ以外の人物とのあいだで生じる会話の齟齬は、そのまま読者とエヴァとの齟齬となって私たちを戸惑わせることになる。

 私たち人間は言葉をもちいてコミュニケーションをはかるが、それでもなお私たちはエヴァという人物を理解することができない。そういう意味で、本書における彼女の役割は、人々のそれまで築いてきた関係をかき乱し、破壊するということになるのだが、本書の「作品改題」によれば、エヴァは物心ついたときから外国人の子守や家庭教師に育てられ、各国のホテルを渡り歩いたゆえに母国語が身につかず、人と対話をするという能力に欠けてしまっている、という設定があるらしい。それはある意味では、彼女は何者にもなれる自由な存在ということであるが、逆に言えば何者にもなることができない、まぎれもない自分自身を維持するための基礎となるべきたしかなものを何ひとつもっていない、ということでもある。そしてそう考えたとき、エヴァの言動の背後にどのような思いがあったのか、ほんのわずかではあるが見えてくる。

 考えてみれば、エヴァには社会的な役割というものから完全に孤立した存在として書かれている。両親の子どもと自覚するにはあまりに不充分な生活をつづけてきた彼女は、その結果として人間社会とのつながりをうまくもつことができないままに成長してしまった。巨万の富を相続し、生きていくのに何不自由のない暮らしを約束されたも同然のエヴァは、しかし社会から何の役割もあたえられず、また役割を得るための方法も知りえない状態にある。言葉は空回りし、他人との意思の疎通は思うようにいかず、それが自分も相手も不幸にするという悪循環を引き起こす――それは、お互いに言葉はまったく通じないのに、それでもなお伝わる想いがあるというテーマで書かれたフィリップ・クローデルの『リンさんの小さな子』とは対極に位置するテーマだ。

 本書は自分の居場所、社会的な役割を求めるエヴァの遍歴の物語であり、それをきわめて特異な方法で求めたがゆえの悲劇を描いた物語でもある。はたして彼女は何者になろうとしていたのか、それこそ「一本石コンクリート構造」のごとく硬直した心のうちを、どこまで見通すことができるのか、読者ひとりひとりが試されているような気がしてならない。(2009.06.10)

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