【徳間書店】
『エヴァが目ざめるとき』

ピーター・ディッキンソン著/唐沢則幸訳 



 霊長目ヒト科ホモサピエンス――これが、私たち人間の生物学的な正式名称であるが、このように言われることで、私たちははじめて自分が「人間」である以前に「ホモサピエンス」という種に属する生き物であることを認識する。だが、もしかしたらそんなふうに自分たちを系統づけしなければならない、ということ自体が、私たち人間がいかに自然から遠く離れた存在と化したかを証明する、もっとも明白な証拠なのかもしれない、と思うのは、あるいは私だけだろうか。

 私たちがこの地球上に生きる生物のひとつである、というのは、言わばあたり前の事実であるはずだ。にもかかわらず、私たちはじつに頻繁に、そのあたり前の事実を忘れてしまう。もちろん、他の動物たちにしたところで、自身が自然の一部だなどといちいち意識して生きているわけではないだろうか、それでも人間が他の生物と異なるのは、おそらく自分たちがあまりにも人間中心の社会――人間ひとりひとりに名前をつけて個別化し、言葉によってあらゆるものを管理していこうとする社会――に生きることに慣れすぎてしまっている、という一点であろう。

 雄大な大自然をまのあたりにして、私たちはそれを美しいと思い、また自分の存在をちっぽけだと感じることはできる。だが、現在私たちが受けている科学技術の恩恵をすべて断ち切って、自分もまたその大自然を構成する要素のひとつとして生きていくことを考えるのは難しい。そんなとき、私たちはまだ自然の一部なのか、あるいはもう自然から見放された存在なのか、どちらなのだろう、と考えずにはいられなくなる。

 本書『エヴァが目ざめるとき』という作品について、語るべきことは多々あるが、私が本書を読み終えてまず思ったのは、人類という種の黄昏について――それも、エヴァという「新しい存在」を通して伝わってくる断片的な、しかし確かな事実としての衰退の気配である。

 物語はそのタイトルにもあるように、エヴァという名の女の子が目をさますところからはじまる。思うように動かない、あおむけに寝かされた体、どこかぎこちない、何かを隠しているようなママの声、窓を映す鏡のなかに広がる、青い空と超高層ビルの群れ、そして少しずつよみがえってくる、事故の時の記憶――自分の身に何がおこったのか、まだ何もわからない主人公のエヴァは、同じように本書の世界観についてまだ何も知らない読者にとって、きわめて感情移入しやすい存在である。私たちはエヴァの視点から、少しずつ物語の世界を知り、そしてエヴァ自身の体が交通事故で再起不能の損傷を受け、その結果、人間とはまったく異なるモノの体に、その記憶のみを移植されたという、衝撃的な事実を知ることになる。

 こうした物語の展開の上手さもまた、本書の大きな特長のひとつであるが、それならばいっそ、エヴァの一人称で語ったほうが都合がいいのではないか、という疑問が残る。じっさい、本書は三人称ではあるが、それはきわめてエヴァの一人称に近い三人称だと言ってもいいものだ。だが、これは本書を読み進めていくとおのずとわかってくることであるが、この物語に登場する「エヴァ」とは、人間としてのエヴァであると同時に、じつはエヴァではない。いや、エヴァともうひとり、彼女の記憶を移植するために追い出された、かつての肉体の持ち主、チンパンジーのケリーの記憶とが混じりあった、まったく新しい存在としての「エヴァ」と言ったほうがいいだろう。

 自分をまっ二つに分けてしまう壁のような、そんな境界線を自分のなかに持ったまま、生きていけるわけがない。完全な自分になる唯一の方法は、その壁をくずすこと。――(中略)――チンパンジーの記憶は、一度は追いやられた道筋を思い出して、もどってきて、人間の記憶とからまり合い、やがて二つの記憶は一つのパターンをおりなすだろう。全く新しいパターン。エヴァでも、ケリーでもない、両者を併せ持ったただ一つのパターンを。

 本書のなかに書かれている物語は、ただ単に人間がチンパンジーになってしまう、という奇妙奇天烈な話でも、また人間の記憶を人間以外の動物に移し替えることが可能かどうかを検証するためのSFドラマでもない。それはたしかに衝撃的ではあるが、たんなるはじまりにすぎない。重要なのは、「新しい存在」としての「エヴァ」が、ときに人間側へと傾いたり、あるいはチンパンジー側へと傾いていきながら、次第に「ただ一つのパターン」として統合されていく過程を、あくまで三人称という神の視点から描く、ということなのだ。そしてそのとき、エヴァという、ひとりの人間を指し示すものだった言葉は、原初の母としての「エヴァ」という意味合いを帯びてくることになる。

 私は本書を読んだ最初の感じが、人間という種の黄昏の気配だと述べた。近未来の地球――人口爆発、資源の枯渇をはじめとするさまざまな問題を抱え、動物たちが次々と絶滅していくいっぽうで、ますます短絡的な考えに走り、問題解決のための努力を放棄するようになってしまった人間たちの住む大都会は、完全な人間でも、また完全なチンパンジーでもない「エヴァ」から見たとき、いかにも騒々しく、奇妙なことにとり憑かれ、そしてどこか孤独でもの悲しいものとして映る。それは「エヴァ」の記憶にある緑の森の夢、そしてそこで生活するチンパンジーたちの世界と比較されることによって、よりいっそうはっきりとしたものとなってくるのだが、同時に両親のことをたしかに「パパ」「ママ」と呼ぶエヴァ自身、次第に人間とはかけ離れた場所に立って物事を見るようになっていくという過程もまた、大きく影響していると言えるだろう。最初に自分たちと同じ「人間」として感情移入していたはずのエヴァが、だんだん自分たちの知らない何かになっていく――そのときすでに、読者にはエヴァを憐れむ心はなく、ただ自分たちが取り残された、という思いだけが残ってしまうのだ。

 本書の中で迎えることになるホモサピエンスの運命は、あくまでひとつの可能性でしかない。だが、そのように考えているのは、私たち人間だけかもしれない、という可能性を否定できる者もいない。「新しい存在」となった「エヴァ」の視点から見えてくる人間の社会を、その未来にあるひとつの可能性を、ぜひ感じとってもらいたい。(2003.01.25)

ホームへ